。笑とまで片づかぬものは、明かに浮ばぬ先に自然《じねん》と消える。
「宗近の方は大丈夫なんでしょうね」
「大丈夫でなくったって、仕方がないじゃないか」
「でも断って下すったんでしょう」
「断ったんだとも。この間行った時に、宗近の阿爺《おとっさん》に逢って、よく理由《わけ》は話して来たのさ。――帰ってから御前にも話した通り」
「それは覚えていますけれども、何だか判然《はっきり》しないようだったから」
「判然しないのは向の事さ。阿爺があの通り気の長い人だもんだから」
「こっちでも判然とは断わらなかったんでしょう」
「そりゃ今までの義理があるから、そう子供の使のように、藤尾が厭《いや》だと申しますから、平《ひら》に御断わり申しますとは云えないからね」
「なに厭なものは、どうしたって好くなりっこ無いんだから、いっそ平ったく云った方が好いんですよ」
「だって、世間はそうしたもんじゃあるまい。御前はまだ年が若いから露骨《むきだし》でも構わないと御思《おおもい》かも知れないが、世の中はそうは行かないよ。同じ断わるにしても、そこにはね。やっぱり蓋《ふた》も味《み》もあるように云わないと――ただ怒らしてしまったって仕方がないから」
「何とか云って断ったのね」
「欽吾がどうあっても嫁を貰《もら》うと云ってくれません。私も取る年で心細うございますから」と一と息に下《くだ》して来る。ちょっと御茶を呑む。
「年を取って心細いから」
「心細いから、欽吾《あれ》があのまま押し通す料簡《りょうけん》なら、藤尾に養子でもして掛かるよりほかに致し方がございません。すると一《はじめ》さんは大事な宗近家の御相続人だから私共へいらしっていただく訳にも行かず、また藤尾を差し上げる訳にも参らなくなりますから……」
「それじゃ兄さんがもしや御嫁を貰うと云い出したら困るでしょう」
「なに大丈夫だよ」と母は浅黒い額へ癇癪《かんしゃく》の八の字を寄せた。八の字はすぐとれる。やがて云う。
「貰うなら、貰うで、糸子《いとこ》でも何でも勝手な人を貰うがいいやね。こっちはこっちで早く小野さんを入れてしまうから」
「でも宗近の方は」
「いいよ。そう心配しないでも」と地烈太《じれった》そうに云い切った後で
「外交官の試験に及第しないうちは嫁どころじゃないやね」と付けた。
「もし及第したら、すぐ何か云うでしょう」
「だって、彼《あの》男に及第が出来ますものかね。考えて御覧な。――もし及第なすったら藤尾を差上《さしあげ》ましょうと約束したって大丈夫だよ」
「そう云ったの」
「そうは云わないさ。そうは云わないが、云っても大丈夫、及第出来っ子ない男だあね」
藤尾は笑ながら、首を傾けた。やがてすっきと姿勢を正して、話を切り上げながら云う。
「じゃ宗近の御叔父《おじさん》はたしかに断わられたと思ってるんですね」
「思ってるはずだがね。――どうだい、あれから一の様子は、少しは変ったかい」
「やっぱり同《おんな》じですからさ。この間博覧会へ行ったときも相変らずですもの」
「博覧会へ行ったのは、いつだったかね」
「今日で」と考える。「一昨日《おととい》、一昨々日《さきおととい》の晩です」と云う。
「そんなら、もう一に通じている時分だが。――もっとも宗近の御叔父がああ云う人だから、ことに依ると謎《なぞ》が通じなかったかも知れないね」とさも歯痒《はがゆ》そうである。
「それとも一さんの事だから、御叔父から聞いても平気でいるのかも知れないわね」
「そうさ。どっちがどっちとも云えないね。じゃ、こうしよう。ともかくも欽吾に話してしまおう。――こっちで黙っていちゃ、いつまで立っても際限がない」
「今、書斎にいるでしょう」
母は立ち上がった。椽側《えんがわ》へ出た足を一歩《ひとあし》後《あと》へ返して、小声に
「御前、一に逢《あ》うだろう」と屈《こごみ》ながら云う。
「逢うかも知れません」
「逢ったら少し匂わして置く方が好いよ。小野さんと大森へ行くとか云っていたじゃないか。明日《あした》だったかね」
「ええ、明日の約束です」
「何なら二人で遊んで歩くところでも見せてやると好い」
「ホホホホ」
母は書斎に向う。
からりとした椽《えん》を通り越して、奇麗な木理《もくめ》を一面に研《と》ぎ出してある西洋間の戸を半分明けると、立て切った中は暗い。円鈕《ノッブ》を前に押しながら、開く戸に身を任せて、音なき両足を寄木《よせき》の床《ゆか》に落した時、釘舌《ボールト》のかちゃりと跳《は》ね返る音がする。窓掛に春を遮《さえ》ぎる書斎は、薄暗く二人を、人の世から仕切った。
「暗い事」と云いながら、母は真中の洋卓《テエブル》まで来て立ち留まる。椅子《いす》の背の上に首だけ見えた欽吾の後姿が、声のした方へ、じいっと廻り込むと、なぞえに引いた眉の切れが三が一ほどあらわれた。黒い片髭《かたひげ》が上唇を沿うて、自然《じねん》と下りて来て、尽んとする角《かど》から、急に捲《ま》き返す。口は結んでいる。同時に黒い眸《ひとみ》は眼尻まで擦《ず》って来た。母と子はこの姿勢のうちに互を認識した。
「陰気だねえ」と母は立ちながら繰り返す。
無言の人は立ち上る。上靴を二三度床に鳴らして、洋卓の角まで足を運ばした時、始めて
「窓を明けましょうか」と緩《ゆっくり》聞いた。
「どうでも――母《おっか》さんはどうでも構わないが、ただ御前が欝陶《うっとう》しいだろうと思ってさ」
無言の人は再び右の手の平を、洋卓越に前へ出した。促《うな》がされたる母はまず椅子に着く。欽吾も腰を卸《おろ》した。
「どうだね、具合は」
「ありがとう」
「ちっとは好い方かね」
「ええ――まあ――」と生返事《なまへんじ》をした時、甲野さんは背を引いて腕を組んだ。同時に洋卓の下で、右足の甲の上へ左の外踝《そとくろぶし》を乗せる。母の眼からは、ただ裄《ゆき》の縮んだ卵色の襯衣《シャツ》の袖が正面に見える。
「身体《からだ》を丈夫にしてくれないとね、母さんも心配だから……」
句の切れぬうちに、甲野さんは自分の顎《あご》を咽喉《のど》へ押しつけて、洋卓の下を覗き込んだ。黒い足袋が二つ重なっている。母の足は見えない。母は出直した。
「身体が悪いと、つい気分まで欝陶しくなって、自分も面白くないし……」
甲野さんはふと眼を上げた。母は急に言葉を移す。
「でも京都へ行ってから、少しは好いようだね」
「そうですか」
「ホホホホ、そうですかって、他人《ひと》の事のように。――何だか顔色が丈夫丈夫して来たじゃないか。日に焼けたせいかね」
「そうかも知れない」と甲野さんは、首を向け直して、窓の方を見る。窓掛の深い襞《ひだ》が左右に切れる間から、扇骨木《かなめ》の若葉が燃えるように硝子《ガラス》に映《うつ》る。
「ちっと、日本間の方へ話にでも来て御覧。あっちは、廓《から》っとして、書斎より心持が好いから。たまには、一《はじめ》のようにつまらない女を相手にして世間話をするのも気が変って面白いものだよ」
「ありがとう」
「どうせ相手になるほどの話は出来ないけれども――それでも馬鹿は馬鹿なりにね。……」
甲野さんは眩《まぶ》しそうな眼を扇骨木から放した。
「扇骨木が大変|奇麗《きれい》に芽《め》を吹きましたね」
「見事だね。かえって生《なま》じいな花よりも、好《よ》ござんすよ。ここからは、たった一本しっきゃ見えないね。向《むこう》へ廻ると刈り込んだのが丸《まある》く揃《そろ》って、そりゃ奇麗」
「あなたの部屋からが一番好く見えるようですね」
「ああ、御覧かい」
甲野さんは見たとも見ないとも云わなかった。母は云う。――
「それにね。近頃は陽気のせいか池の緋鯉《ひごい》が、まことによく跳《はね》るんで……ここから聞えますかい」
「鯉の跳る音がですか」
「ああ」
「いいえ」
「聞えない。聞えないだろうねこう立て切って有っちゃあ。母《おっか》さんの部屋からでも聞えないくらいだから。この間藤尾に母さんは耳が悪くなったって、さんざん笑われたのさ。――もっとも、もう耳も悪くなって好い年だから仕方がないけれども」
「藤尾はいますか」
「いるよ。もう小野さんが来て稽古《けいこ》をする時分だろう。――何か用でもあるかい」
「いえ、用は別にありません」
「あれも、あんな、気の勝った子で、さぞ御前さんの気に障《さわ》る事もあろうが、まあ我慢して、本当の妹だと思って、面倒を見てやって下さい」
甲野さんは腕組のまま、じっと、深い瞳《ひとみ》を母の上に据《す》えた。母の眼はなぜか洋卓《テエブル》の上に落ちている。
「世話はする気です」と徐《しず》かに云う。
「御前がそう云ってくれると私《わたし》もまことに安心です」
「する気どころじゃない。したいと思っているくらいです」
「それほどに思ってくれると聞いたら当人もさぞ喜ぶ事だろう」
「ですが……」で言葉は切れた。母は後《あと》を待つ。欽吾は腕組を解いて、椅子に倚《よ》る背を前に、胸を洋卓《テエブル》の角《かど》へ着けるほど母に近づいた。
「ですが、母《おっか》さん。藤尾の方では世話になる気がありません」
「そんな事が」と今度は母の方が身体《からだ》を椅子の背に引いた。甲野さんは一筋の眉さえ動かさない。同じような低い声を、静かに繋《つな》げて行く。
「世話をすると云うのは、世話になる方でこっちを信仰――信仰と云うのは神さまのようでおかしい」
甲野さんはここでぽつりと言葉を切った。母はまだ番が回って来ないと心得たか、尋常に控えている。
「とにかく世話になっても好いと思うくらいに信用する人物でなくっちゃ駄目です」
「そりゃ御前にそう見限られてしまえばそれまでだが」とここまでは何の苦もなく出したが、急に調子を逼《せま》らして、
「藤尾《あれ》も実は可哀想《かわいそう》だからね。そう云わずに、どうかしてやって下さい」と云う。甲野さんは肘《ひじ》を立てて、手の平で額《ひたい》を抑えた。
「だって見縊《みくび》られているんだから、世話を焼けば喧嘩《けんか》になるばかりです」
「藤尾が御前さんを見縊るなんて……」と打《う》ち消《けし》はしとやかな母にしては比較的に大きな声であった。
「そんな事があっては第一|私《わたし》が済まない」と次に添えた時はもう常に復していた。
甲野さんは黙って肘を立てている。
「何か藤尾が不都合な事でもしたかい」
甲野さんは依然として額に加えた手の下から母を眺《なが》めている。
「もし不都合があったら、私から篤《とく》と云って聞かせるから、遠慮しないで、何でも話しておくれ。御互のなかで気不味《きまず》い事があっちゃあ面白くないから」
額に加えた五本の指は、節長に細《ほっそ》りして、爪の形さえ女のように華奢《きゃしゃ》に出来ている。
「藤尾はたしか二十四になったんですね」
「明けて四《し》になったのさ」
「もうどうかしなくっちゃならないでしょう」
「嫁の口かい」と母は簡単に念を押した。甲野さんは嫁とも聟《むこ》とも判然した答をしない。母は云う。
「藤尾の事も、実は相談したいと思っているんだが、その前にね」
「何ですか」
右の眉《まゆ》はやはり手の下に隠れている。眼の光《いろ》は深い。けれども鋭い点はどこにも見えぬ。
「どうだろう。もう一遍考え直してくれると好いがね」
「何をですか」
「御前の事をさ。藤尾も藤尾でどうかしなければならないが、御前の方を先へきめないと、母《おっか》さんが困るからね」
甲野さんは手の甲の影で片頬《かたほ》に笑った。淋《さみ》しい笑である。
「身体《からだ》が悪いと御云いだけれども、御前くらいの身体で御嫁を取った人はいくらでもあります」
「そりゃ、有るでしょう」
「だからさ。御前も、もう一遍考え直して御覧な。中には御嫁を貰って大変丈夫になった人もあるくらいだよ」
甲野さんの手はこの時始めて額を離れた。洋卓《テエブル》の上には一枚の罫紙《けいし》に鉛筆が添えて載《の》せてある。何気なく罫紙を取り上げて裏を返して見ると三四行の英語
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