だどう身を捨てるかが問題である。死? 死とはあまりに無能である」
 宗近君は籐《と》の椅子《いす》に横平《おうへい》な腰を据えてさっきから隣りの琴《こと》を聴いている。御室《おむろ》の御所《ごしょ》の春寒《はるさむ》に、銘《めい》をたまわる琵琶《びわ》の風流は知るはずがない。十三絃《じゅうさんげん》を南部の菖蒲形《しょうぶがた》に張って、象牙《ぞうげ》に置いた蒔絵《まきえ》の舌《した》を気高《けだか》しと思う数奇《すき》も有《も》たぬ。宗近君はただ漫然と聴《き》いているばかりである。
 滴々《てきてき》と垣を蔽《おお》う連※[#「くさかんむり/翹」、第4水準2−87−19]《れんぎょう》の黄《き》な向うは業平竹《なりひらだけ》の一叢《ひとむら》に、苔《こけ》の多い御影の突《つ》く這《ば》いを添えて、三坪に足らぬ小庭には、一面に叡山苔《えいざんごけ》を這《は》わしている。琴の音《ね》はこの庭から出る。
 雨は一つである。冬は合羽《かっぱ》が凍《こお》る。秋は灯心が細る。夏は褌《ふどし》を洗う。春は――平打《ひらうち》の銀簪《ぎんかん》を畳の上に落したまま、貝合《かいあわ》せの貝の裏が朱と金と藍《あい》に光る傍《かたわら》に、ころりんと掻《か》き鳴らし、またころりんと掻き乱す。宗近君の聴いてるのはまさにこのころりんである。
「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。
「耳に聴《き》くは声である。形と声は物の本体ではない。物の本体を証得しないものには形も声も無意義である。何物かをこの奥に捕《とら》えたる時、形も声もことごとく新らしき形と声になる。これが象徴である。象徴とは本来空《ほんらいくう》の不可思議を眼に見、耳に聴くための方便である。……」
 琴の手は次第に繁くなる。雨滴《あまだれ》の絶間《たえま》を縫《ぬ》うて、白い爪が幾度か駒《こま》の上を飛ぶと見えて、濃《こまや》かなる調べは、太き糸の音《ね》と細き音を綯《よ》り合せて、代る代るに乱れ打つように思われる。甲野さんが「無絃《むげん》の琴を聴《き》いて始めて序破急《じょはきゅう》の意義を悟る」と書き終った時、椅子《いす》に靠《もた》れて隣家《となり》ばかりを瞰下《みおろ》していた宗近君は
「おい、甲野さん、理窟《りくつ》ばかり云わずと、ちとあの琴でも聴くがいい。なかなか旨《うま》いぜ」
と椽側《えんがわ》から部屋の中へ声を掛けた。
「うん、さっきから拝聴している」と甲野さんは日記をぱたりと伏せた。
「寝ながら拝聴する法はないよ。ちょっと椽《えん》まで出張を命ずるから出て来なさい」
「なに、ここで結構だ。構ってくれるな」と甲野さんは空気枕を傾けたまま起き上がる景色《けしき》がない。
「おい、どうも東山が奇麗《きれい》に見えるぜ」
「そうか」
「おや、鴨川《かもがわ》を渉《わた》る奴《やつ》がある。実に詩的だな。おい、川を渉る奴があるよ」
「渉ってもいいよ」
「君、布団《ふとん》着て寝たる姿やとか何とか云うが、どこに布団を着ている訳かな。ちょっとここまで来て教えてくれんかな」
「いやだよ」
「君、そうこうしているうちに加茂の水嵩《みずかさ》が増して来たぜ。いやあ大変だ。橋が落ちそうだ。おい橋が落ちるよ」
「落ちても差《さ》し支《つか》えなしだ」
「落ちても差し支えなしだ? 晩に都踊が見られなくっても差し支えなしかな」
「なし、なし」と甲野さんは面倒臭くなったと見えて、寝返りを打って、例の金襖《きんぶすま》の筍《たけのこ》を横に眺《なが》め始めた。
「そう落ちついていちゃ仕方がない。こっちで降参するよりほかに名案もなくなった」と宗近さんは、とうとう我《が》を折って部屋の中へ這入《はい》って来る。
「おい、おい」
「何だ、うるさい男だね」
「あの琴を聴いたろう」
「聴いたと云ったじゃないか」
「ありゃ、君、女だぜ」
「当り前さ」
「幾何《いくつ》だと思う」
「幾歳《いくつ》だかね」
「そう冷淡じゃ張り合がない。教えてくれなら、教えてくれと判然《はっきり》云うがいい」
「誰が云うものか」
「云わない? 云わなければこっちで云うばかりだ。ありゃ、島田《しまだ》だよ」
「座敷でも開《あ》いてるのかい」
「なに座敷はぴたりと締ってる」
「それじゃまた例の通り好加減《いいかげん》な雅号なんだろう」
「雅号にして本名なるものだね。僕はあの女を見たんだよ」
「どうして」
「そら聴《き》きたくなった」
「何聴かなくってもいいさ。そんな事を聞くよりこの筍《たけのこ》を研究している方がよっぽど面白い。この筍を寝ていて横に見ると、背《せい》が低く見えるがどう云うものだろう」
「おおかた君の眼が横に着いているせいだろう」
「二枚の唐紙《からかみ》に三本|描《か》いたのは、どう云う因縁《いんねん》
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