い。なるほど広い所に違ない」と先生は大いに感心している。なんだか田舎染《いなかじ》みて見える。小野さんは光沢《つや》の悪い先生の顔から眼を放して、自分の膝元を眺めた。カフスは真白である。七宝《しっぽう》の夫婦釦《めおとボタン》は滑《なめらか》な淡紅色《ときいろ》を緑の上に浮かして、華奢《きゃしゃ》な金縁のなかに暖かく包まれている。背広《せびろ》の地は品《ひん》の好い英吉利織《イギリスおり》である。自己をまのあたりに物色した時、小野さんは自己の住むべき世界を卒然と自覚した。先生に釣り込まれそうな際《きわ》どいところで急に忘れ物を思い出したような気分になる。先生には無論分らぬ。
「いっしょにあるいたのも久しぶりだね。今年でちょうど五年目になるかい」とさも可懐《なつかし》げに話しかける。
「ええ五年目です」
「五年目でも、十年目でも、こうして一つ所に住むようになれば結構さ。――小夜も喜んでいる」と後から継《つ》ぎ足したように一句を付け添えた。小野さんは早速《さそく》の返事を忘れて、暗い部屋のなかに竦《すくま》るような気がした。
「さっき御嬢さんが御出《おいで》でした」と仕方がないから渡し込む。
「ああ、――なに急ぐ事でも無かったんだが、もしや暇があったらいっしょに連れて行って買物をして貰おうと思ってね」
「あいにく出掛《でが》けだったものですから」
「そうだってね。飛んだ御邪魔をしたろう。どこぞ急用でもあったのかい」
「いえ――急用でもなかったんですが」と相手は少々言い淀《よど》む。先生は追窮しない。
「はあ、そうかい。そりゃあ」と漠々《ばくばく》たる挨拶《あいさつ》をした。挨拶が漠々たると共に、部屋のなかも朦朧《もうろう》と取締《とりしまり》がなくなって来る。今宵は月だ。月だが、まだ間《ま》がある。のに日は落ちた。床《とこ》は一間を申訳のために濃い藍《あい》の砂壁に塗り立てた奥には、先生が秘蔵の義董《ぎとう》の幅《ふく》が掛かっていた。唐代の衣冠《いかん》に蹣跚《まんさん》の履《くつ》を危うく踏んで、だらしなく腕に巻きつけた長い袖を、童子の肩に凭《もた》した酔態は、この家の淋《さび》しさに似ず、春王《はるおう》の四月に叶《かな》う楽天家である。仰せのごとく額をかくす冠《かんむり》の、黒い色が著るしく目についたのは今先の事であったに、ふと見ると、纓《ひも》か飾か、紋切形に左右に流す幅広の絹さえ、ぼんやりと近づく宵《よい》を迎えて、来る夜に紛《まぎ》れ込もうとする。先生も自分もぐずぐずすると一つ穴へはまって、影のように消えて行きそうだ。
「先生、御頼《おたのみ》の洋灯《ランプ》の台を買って来ました」
「それはありがたい。どれ」
 小野さんは薄暗いなかを玄関へ出て、台と屑籠《くずかご》を持ってくる。
「はあ――何だか暗くってよく見えない。灯火《あかり》を点《つ》けてから緩《ゆっ》くり拝見しよう」
「私が点《つ》けましょう。洋灯《ランプ》はどこにありますか」
「気の毒だね。もう帰って来る時分だが。じゃ椽側へ出ると右の戸袋のなかにあるから頼もう。掃除はもうしてあるはずだ」
 薄暗い影が一つ立って、障子《しょうじ》をすうと明ける。残る影はひそかに手を拱《こまぬ》いて動かぬほどを、夜は襲《おそ》って来る。六畳の座敷は淋《さみ》しい人を陰気に封じ込めた。ごほんごほんと咳をせく。
 やがて椽《えん》の片隅で擦《す》る燐寸《マッチ》の音と共に、咳はやんだ。明るいものは室《へや》のなかに動いて来る。小野さんは洋袴《ズボン》の膝を折って、五分心《ごぶじん》を新らしい台の上に載《の》せる。
「ちょうどよく合うね。据《すわ》りがいい。紫檀《したん》かい」
「模擬《まがい》でしょう」
「模擬でも立派なものだ。代は?」
「何ようござんす」
「よくはない。いくらかね」
「両方で四円少しです」
「四円。なるほど東京は物が高いね。――少しばかりの恩給でやって行くには京都の方が遥《はる》かに好いようだ」
 二三年前と違って、先生は些額《さがく》の恩給とわずかな貯蓄から上がる利子とで生活して行かねばならぬ。小野さんの世話をした時とはだいぶ違う。事に依れば小野さんの方から幾分か貢《みつ》いで貰いたいようにも見える。小野さんは畏《かしこ》まって控えている。
「なに小夜さえなければ、京都にいても差《さ》し支《つかえ》ないんだが、若い娘を持つとなかなか心配なもので……」と途中でちょっと休んで見せる。小野さんは畏まったまま応じなかった。
「私《わたし》などはどこの果《はて》で死のうが同じ事だが、後に残った小夜がたった一人で可哀想《かわいそう》だからこの年になって、わざわざ東京まで出掛けて来たのさ。――いかな故郷でももう出てから二十年にもなる。知合も交際《つきあい》もない。まるで他国
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