て?」と次を催促する。
「仕方がないわ」と小さな声で附ける。老人は首を傾けた。
「小野が何か云ったかい」
「いいえ別に……」
同じ質問と同じ返事はまた繰返される。水車《みずぐるま》を踏めば廻るばかりである。いつまで踏んでも踏み切れるものではない。
「ハハハハくだらぬ事を気にしちゃいけない。春は気が欝《ふさ》ぐものでね。今日なぞは阿父《おとっさん》などにもよくない天気だ」
気が欝《ふさ》ぐのは秋である。餅《もち》と知って、酒の咎《とが》だと云う。慰さめられる人は、馬鹿にされる人である。小夜子は黙っていた。
「ちっと琴《こと》でも弾《ひ》いちゃどうだい。気晴《きばらし》に」
娘は浮かぬ顔を、愛嬌《あいきょう》に傾けて、床の間を見る。軸《じく》は空《むな》しく落ちて、いたずらに余る黒壁の端を、竪《たて》に截《き》って、欝金《うこん》の蔽《おい》が春を隠さず明らかである。
「まあ廃《よ》しましょう」
「廃す? 廃すなら御廃し。――あの、小野はね。近頃忙がしいんだよ。近々《きんきん》博士論文を出すんだそうで……」
小夜子は銀時計すらいらぬと思う。百の博士も今の己《おの》れには無益である。
「だから落ちついていないんだよ。学問に凝《こ》ると誰でもあんなものさ。あんまり心配しないがいい。なに緩《ゆっ》くりしたくっても、していられないんだから仕方がない。え? 何だって」
「あんなにね」
「うん」
「急いでね」
「ああ」
「御帰りに……」
「御帰りに――なった? ならないでも? 好さそうなものだって仕方がないよ。学問で夢中になってるんだから。――だから一日《いちんち》都合をして貰って、いっしょに博覧会でも見ようって云ってるんじゃないか。御前話したかい」
「いいえ」
「話さない? 話せばいいのに。いったい小野が来たと云うのに何をしていたんだ。いくら女だって、少しは口を利《き》かなくっちゃいけない」
口を利けぬように育てて置いてなぜ口を利かぬと云う。小夜子はすべての非を負わねばならぬ。眼の中が熱くなる。
「なに好いよ。阿父《おとっさん》が手紙で聞き合せるから――悲しがる事はない。叱ったんじゃない。――時に晩の御飯はあるかい」
「御飯だけはあります」
「御飯だけあればいい、なに御菜《おさい》はいらないよ。――頼んで置いた婆さんは明日《あした》くるそうだ。――もう少し慣れると、東京だって京都だって同じ事だ」
小夜子は勝手へ立った。孤堂先生は床の間の風呂敷包を解き始める。
十
謎《なぞ》の女は宗近《むねちか》家へ乗り込んで来る。謎の女のいる所には波が山となり炭団《たどん》が水晶と光る。禅家では柳は緑花は紅《くれない》と云う。あるいは雀はちゅちゅで烏《からす》はかあかあとも云う。謎の女は烏をちゅちゅにして、雀をかあかあにせねばやまぬ。謎の女が生れてから、世界が急にごたくさになった。謎の女は近づく人を鍋《なべ》の中へ入れて、方寸《ほうすん》の杉箸《すぎばし》に交《ま》ぜ繰り返す。芋をもって自《みず》からおるものでなければ、謎の女に近づいてはならぬ。謎の女は金剛石《ダイヤモンド》のようなものである。いやに光る。そしてその光りの出所《でどころ》が分らぬ。右から見ると左に光る。左から見ると右に光る。雑多な光を雑多な面から反射して得意である。神楽《かぐら》の面《めん》には二十通りほどある。神楽の面を発明したものは謎の女である。――謎の女は宗近家へ乗り込んでくる。
真率なる快活なる宗近家の大和尚《だいおしょう》は、かく物騒な女が天《あめ》が下《した》に生を享《う》けて、しきりに鍋の底を攪《か》き廻しているとは思いも寄らぬ。唐木《からき》の机に唐刻の法帖《ほうじょう》を乗せて、厚い坐布団の上に、信濃《しなの》の国に立つ煙、立つ煙と、大きな腹の中から鉢《はち》の木《き》を謡《うた》っている。謎の女はしだいに近づいてくる。
悲劇マクベスの妖婆《ようば》は鍋《なべ》の中に天下の雑物《ぞうもつ》を攫《さら》い込んだ。石の影に三十日《みそか》の毒を人知れず吹く夜《よる》の蟇《ひき》と、燃ゆる腹を黒き背《せ》に蔵《かく》す蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》の胆《きも》と、蛇の眼《まなこ》と蝙蝠《かわほり》の爪と、――鍋はぐらぐらと煮える。妖婆はぐるりぐるりと鍋を廻る。枯れ果てて尖《とが》れる爪は、世を咀《のろ》う幾代《いくよ》の錆《さび》に瘠《や》せ尽くしたる鉄《くろがね》の火箸《ひばし》を握る。煮え立った鍋はどろどろの波を泡《あわ》と共に起す。――読む人は怖ろしいと云う。
それは芝居である。謎の女はそんな気味の悪い事はせぬ。住むは都である。時は二十世紀である。乗り込んで来るのは真昼間《まっぴるま》である。鍋の底からは愛嬌
前へ
次へ
全122ページ中46ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング