》から申し上げた犬で御座います」
「犬?」
「ええ、遠吠《とおぼえ》で御座います。私が申し上げた通りに遊ばせば、こんな事にはならないで済んだんで御座いますのに、あなたが婆さんの迷信だなんて、あんまり人を馬鹿に遊ばすものですから……」
「こんな事にもあんな事にも、まだ何にも起らないじゃないか」
「いえ、そうでは御座いません、旦那様も御帰り遊ばす途中御嬢様の御病気の事を考えていらしったに相違御座いません」と婆さんずばと図星《ずぼし》を刺す。寒い刃《は》が闇に閃《ひら》めいてひやりと胸打《むねうち》を喰わせられたような心持がする。
「それは心配して来たに相違ないさ」
「それ御覧遊ばせ、やっぱり虫が知らせるので御座います」
「婆さん虫が知らせるなんて事が本当にあるものかな、御前そんな経験をした事があるのかい」
「あるだんじゃ御座いません。昔しから人が烏《からす》鳴《な》きが悪いとか何とか善《よ》く申すじゃ御座いませんか」
「なるほど烏鳴きは聞いたようだが、犬の遠吠は御前一人のようだが――」
「いいえ、あなた」と婆さんは大軽蔑《だいけいべつ》の口調《くちょう》で余の疑《うたがい》を否定する。「同じ事で御座いますよ。婆《ばあ》やなどは犬の遠吠でよく分ります。論より証拠これは何かあるなと思うとはずれた事が御座いませんもの」
「そうかい」
「年寄の云う事は馬鹿に出来ません」
「そりゃ無論馬鹿には出来んさ。馬鹿に出来んのは僕もよく知っているさ。だから何も御前を――しかし遠吠がそんなに、よく当るものかな」
「まだ婆やの申す事を疑《うたぐ》っていらっしゃる。何でもよろしゅう御座いますから明朝《みょうあさ》四谷へ行って御覧遊ばせ、きっと何か御座いますよ、婆やが受合いますから」
「きっと何かあっちゃ厭《いや》だな。どうか工夫はあるまいか」
「それだから早く御越し遊ばせと申し上げるのに、あなたが余り剛情を御張り遊ばすものだから――」
「これから剛情はやめるよ。――ともかくあした早く四谷へ行って見る事にしよう。今夜これから行っても好いが……」
「今夜いらしっちゃ、婆やは御留守居は出来ません」
「なぜ?」
「なぜって、気味《きび》が悪くっていても起《た》ってもいられませんもの」
「それでも御前が四谷の事を心配しているんじゃないか」
「心配は致しておりますが、私だって怖しゅう御座いますから」
 折から軒を繞《めぐ》る雨の響に和して、いずくよりともなく何物か地を這《は》うて唸《うな》り廻るような声が聞える。
「ああ、あれで御座います」と婆さんが瞳《ひとみ》を据《す》えて小声で云う。なるほど陰気な声である。今夜はここへ寝る事にきめる。
 余は例のごとく蒲団《ふとん》の中へもぐり込んだがこの唸り声が気になって瞼《まぶた》さえ合わせる事が出来ない。
 普通犬の鳴き声というものは、後も先も鉈刀《なた》で打《ぶ》ち切った薪雑木《まきざつぼう》を長く継《つ》いだ直線的の声である。今聞く唸り声はそんなに簡単な無造作《むぞうさ》の者ではない。声の幅に絶えざる変化があって、曲りが見えて、丸みを帯びている。蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》の細きより始まって次第に福やかに広がってまた油の尽きた灯心《とうしん》の花と漸次《ぜんじ》に消えて行く。どこで吠えるか分らぬ。百里の遠きほかから、吹く風に乗せられて微《かす》かに響くと思う間《ま》に、近づけば軒端《のきば》を洩《も》れて、枕に塞《ふさ》ぐ耳にも薄《せま》る。ウウウウと云う音が丸い段落をいくつも連《つら》ねて家の周囲を二三度|繞《めぐ》ると、いつしかその音がワワワワに変化する拍子、疾《と》き風に吹き除《の》けられて遥《はる》か向うに尻尾《しっぽ》はンンンと化して闇の世界に入《い》る。陽気な声を無理に圧迫して陰欝《いんうつ》にしたのがこの遠吠である。躁狂《そうきょう》な響を権柄《けんぺい》ずくで沈痛ならしめているのがこの遠吠である。自由でない。圧制されてやむをえずに出す声であるところが本来の陰欝、天然の沈痛よりも一層|厭《いや》である、聞き苦しい。余は夜着《よぎ》の中に耳の根まで隠した。夜着の中でも聞える。しかも耳を出しているより一層聞き苦しい。また顔を出す。
 しばらくすると遠吠がはたとやむ。この夜半《やはん》の世界から犬の遠吠を引き去ると動いているものは一つもない。吾家《わがや》が海の底へ沈んだと思うくらい静かになる。静まらぬは吾心のみである。吾心のみはこの静かな中から何事かを予期しつつある。されどもその何事なるかは寸分《すんぶん》の観念だにない。性《しょう》の知れぬ者がこの闇の世からちょっと顔を出しはせまいかという掛念《けねん》が猛烈に神経を鼓舞《こぶ》するのみである。今出るか、今出るかと考えている。髪の毛の間へ五本の指を差し込んでむちゃくちゃに掻《か》いて見る。一週間ほど湯に入《はい》って頭を洗わんので指の股《また》が油でニチャニチャする。この静かな世界が変化したら――どうも変化しそうだ。今夜のうち、夜の明けぬうち何かあるに相違ない。この一秒を待って過ごす。この一秒もまた待ちつつ暮らす。何を待っているかと云われては困る。何を待っているか自分に分らんから一層の苦痛である。頭から抜き取った手を顔の前に出して無意味に眺《なが》める。爪の裏が垢《あか》で薄黒く三日月形に見える。同時に胃嚢《いぶくろ》が運動を停止して、雨に逢った鹿皮を天日《てんぴ》で乾《ほ》し堅めたように腹の中が窮窟《きゅうくつ》になる。犬が吠《ほ》えれば善《よ》いと思う。吠えているうちは厭《いや》でも、厭な度合が分る。こう静かになっては、どんな厭な事が背後に起りつつあるのか、知らぬ間《ま》に醸《かも》されつつあるか見当《けんとう》がつかぬ。遠吠なら我慢する。どうか吠えてくれればいいと寝返りを打って仰向《あおむ》けになる。天井に丸くランプの影が幽《かす》かに写る。見るとその丸い影が動いているようだ。いよいよ不思議になって来たと思うと、蒲団《ふとん》の上で脊髄《せきずい》が急にぐにゃりとする。ただ眼だけを見張って、たしかに動いておるか、おらぬかを確める。――確かに動いている。平常《ふだん》から動いているのだが気がつかずに今日《きょう》まで過したのか、または今夜に限って動くのかしらん。――もし今夜だけ動くのなら、ただごとではない。しかしあるいは腹工合《はらぐあい》のせいかも知れまい。今日会社の帰りに池《いけ》の端《はた》の西洋料理屋で海老《えび》のフライを食ったが、ことによるとあれが祟《たた》っているかもしれん。詰らん物を食って、銭《ぜに》をとられて馬鹿馬鹿しい廃《よ》せばよかった。何しろこんな時は気を落ちつけて寝るのが肝心《かんじん》だと堅く眼を閉じて見る。すると虹霓《にじ》を粉《こ》にして振り蒔《ま》くように、眼の前が五色の斑点でちらちらする。これは駄目だと眼を開《あ》くとまたランプの影が気になる。仕方がないからまた横向になって大病人のごとく、じっとして夜の明けるのを待とうと決心した。
 横を向いてふと目に入ったのは、襖《ふすま》の陰に婆さんが叮嚀《ていねい》に畳んで置いた秩父銘仙《ちちぶめいせん》の不断着である。この前四谷に行って露子の枕元で例の通り他愛《たわい》もない話をしておった時、病人が袖《そで》口の綻《ほころ》びから綿が出懸《でかか》っているのを気にして、よせと云うのを無理に蒲団の上へ起き直って縫ってくれた事をすぐ聯想《れんそう》する。あの時は顔色が少し悪いばかりで笑い声さえ常とは変らなかったのに――当人ももうだいぶ好《よ》くなったから明日《あした》あたりから床《とこ》を上げましょうとさえ言ったのに――今、眼の前に露子の姿を浮べて見ると――浮べて見るのではない、自然に浮んで来るのだが――頭へ氷嚢《ひょうのう》を載《の》せて、長い髪を半分|濡《ぬ》らして、うんうん呻《うめ》きながら、枕の上へのり出してくる。――いよいよ肺炎かしらと思う。しかし肺炎にでもなったら何とか知らせが来るはずだ。使も手紙も来ない所をもって見るとやっぱり病気は全快したに相違ない、大丈夫だ、と断定して眠ろうとする。合わす瞳《ひとみ》の底に露子の青白い肉の落ちた頬と、窪《くぼ》んで硝子張《ガラスばり》のように凄《すご》い眼がありありと写る。どうも病気は癒《なお》っておらぬらしい。しらせはまだ来ぬが、来ぬと云う事が安心にはならん。今に来るかも知れん、どうせ来るなら早く来れば好《よ》い、来ないか知らんと寝返りを打つ。寒いとは云え四月と云う時節に、厚夜着《あつよぎ》を二枚も重ねて掛けているから、ただでさえ寝苦しいほど暑い訳であるが、手足と胸の中《うち》は全く血の通わぬように重く冷たい。手で身のうちを撫《な》でて見ると膏《あぶら》と汗で湿《しめ》っている。皮膚の上に冷たい指が触《さわ》るのが、青大将にでも這《は》われるように厭な気持である。ことによると今夜のうちに使でも来るかも知れん。
 突然何者か表の雨戸を破《わ》れるほど叩《たた》く。そら来たと心臓が飛び上って肋《あばら》の四枚目を蹴《け》る。何か云うようだが叩く音と共に耳を襲うので、よく聞き取れぬ。「婆さん、何か来たぜ」と云う声の下から「旦那様、何か参りました」と答える。余と婆さんは同時に表口へ出て雨戸を開ける。――巡査が赤い火を持って立っている。
「今しがた何かありはしませんか」と巡査は不審な顔をして、挨拶もせぬ先から突然尋ねる。余と婆さんは云い合したように顔を見合せる。両方共何とも答をしない。
「実は今ここを巡行するとね、何だか黒い影が御門から出て行きましたから……」
 婆さんの顔は土のようである。何か云おうとするが息がはずんで云えない。巡査は余の方を見て返答を促《うなが》す。余は化石のごとく茫然《ぼうぜん》と立っている。
「いやこれは夜中《やちゅう》はなはだ失礼で……実は近頃この界隈《かいわい》が非常に物騒なので、警察でも非常に厳重に警戒をしますので――ちょうど御門が開いておって、何か出て行ったような按排《あんばい》でしたから、もしやと思ってちょっと御注意をしたのですが……」
 余はようやくほっと息をつく。咽喉《のど》に痞《つか》えている鉛の丸《たま》が下りたような気持ちがする。
「これは御親切に、どうも、――いえ別に何も盗難に罹《かか》った覚はないようです」
「それなら宜《よろ》しゅう御座います。毎晩犬が吠えておやかましいでしょう。どう云うものか賊がこの辺《へん》ばかり徘徊《はいかい》しますんで」
「どうも御苦労様」と景気よく答えたのは遠吠が泥棒のためであるとも解釈が出来るからである。巡査は帰る。余は夜が明け次第四谷に行くつもりで、六時が鳴るまでまんじりともせず待ち明した。
 雨はようやく上ったが道は非常に悪い。足駄《あしだ》をと云うと歯入屋へ持って行ったぎり、つい取ってくるのを忘れたと云う。靴は昨夜《ゆうべ》の雨でとうてい穿《は》けそうにない。構うものかと薩摩下駄《さつまげた》を引掛けて全速力で四谷坂町まで馳《か》けつける。門は開《あ》いているが玄関はまだ戸閉りがしてある。書生はまだ起きんのかしらと勝手口へ廻る。清と云う下総《しもうさ》生れの頬《ほっ》ペタの赤い下女が俎《まないた》の上で糠味噌《ぬかみそ》から出し立ての細根大根《ほそねだいこん》を切っている。「御早よう、何はどうだ」と聞くと驚いた顔をして、襷《たすき》を半分はずしながら「へえ」と云う。へえでは埓《らち》があかん。構わず飛び上って、茶の間へつかつか這入り込む。見ると御母《おっか》さんが、今起き立の顔をして叮嚀《ていねい》に如鱗木《じょりんもく》の長火鉢を拭《ふ》いている。
「あら靖雄《やすお》さん!」と布巾《ふきん》を持ったままあっけに取られたと云う風をする。あら靖雄さん[#「あら靖雄さん」に傍点]でも埓《らち》があかん。
「どうです、よほど悪いですか」と口早に聞く。
 犬の遠吠が泥棒のせいときまるくらいなら、ことによると病気も癒《なお》っているかも知れない。癒って
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