てある本だがね」
「一人で笑っていねえで少し読んで聞かせねえ」と源さんは松さんに請求する。松さんは大きな声で一節を読み上げる。
「狸《たぬき》が人を婆化《ばか》すと云いやすけれど、何で狸が婆化しやしょう。ありゃみんな催眠術《さいみんじゅつ》でげす……」
「なるほど妙な本だね」と源さんは煙《けむ》に捲《ま》かれている。
「拙《せつ》が一|返《ぺん》古榎《ふるえのき》になった事がありやす、ところへ源兵衛村の作蔵《さくぞう》と云う若い衆《しゅ》が首を縊《くく》りに来やした……」
「何だい狸が何か云ってるのか」
「どうもそうらしいね」
「それじゃ狸のこせえた本じゃねえか――人を馬鹿にしやがる――それから?」
「拙が腕をニューと出している所へ古褌《ふるふんどし》を懸《か》けやした――随分|臭《くそ》うげしたよ――……」
「狸の癖にいやに贅沢《ぜいたく》を云うぜ」
「肥桶《こいたご》を台にしてぶらりと下がる途端拙はわざと腕をぐにゃりと卸《お》ろしてやりやしたので作蔵君は首を縊り損《そこな》ってまごまごしておりやす。ここだと思いやしたから急に榎《えのき》の姿を隠してアハハハハと源兵衛村中へ響くほどな大きな声で笑ったやりやした。すると作蔵君はよほど仰天《ぎょうてん》したと見えやして助けてくれ、助けてくれと褌を置去りにして一生懸命に逃げ出しやした……」
「こいつあ旨《うめ》え、しかし狸が作蔵の褌をとって何にするだろう」
「大方|睾丸《きんたま》でもつつむ気だろう」
 アハハハハと皆《みんな》一度に笑う。余も吹き出しそうになったので職人はちょっと髪剃を顔からはずす。
「面白《おもしれ》え、あとを読みねえ」と源さん大《おおい》に乗気になる。
「俗人は拙が作蔵を婆化したように云う奴でげすが、そりゃちと無理でげしょう。作蔵君は婆化されよう、婆化されようとして源兵衛村をのそのそしているのでげす。その婆化されようと云う作蔵君の御注文に応じて拙《せつ》がちょっと婆化《ばか》して上げたまでの事でげす。すべて狸一派のやり口は今日《こんにち》開業医の用いておりやす催眠術でげして、昔からこの手でだいぶ大方《たいほう》の諸君子をごまかしたものでげす。西洋の狸から直伝《じきでん》に輸入致した術を催眠法とか唱《とな》え、これを応用する連中を先生などと崇《あが》めるのは全く西洋心酔の結果で拙などはひそかに慨嘆《が
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