《みょうがだに》を向《むこう》へ上《あが》って七八丁行けば小日向台町《こびなただいまち》の余が家へ帰られるのだが、向へ上がるまでがちと気味がわるい。
 茗荷谷の坂の中途に当るくらいな所に赤い鮮《あざや》かな火が見える。前から見えていたのか顔をあげる途端に見えだしたのか判然しないが、とにかく雨を透《すか》してよく見える。あるいは屋敷の門口《もんぐち》に立ててある瓦斯灯《ガスとう》ではないかと思って見ていると、その火がゆらりゆらりと盆灯籠《ぼんどうろう》の秋風に揺られる具合に動いた。――瓦斯灯ではない。何だろうと見ていると今度はその火が雨と闇の中を波のように縫って上から下へ動いて来る。――これは提灯《ちょうちん》の火に相違ないとようやく判断した時それが不意と消えてしまう。
 この火を見た時、余ははっと露子《つゆこ》の事を思い出した。露子は余が未来の細君の名である。未来の細君とこの火とどんな関係があるかは心理学者の津田君にも説明は出来んかも知れぬ。しかし心理学者の説明し得るものでなくては思い出してならぬとも限るまい。この赤い、鮮《あざや》かな、尾の消える縄に似た火は余をしてたしかに余が未来の細君をとっさの際に思い出さしめたのである。――同時に火の消えた瞬間が露子の死を未練もなく拈出《ねんしゅつ》した。額《ひたい》を撫《な》でると膏汗《あぶらあせ》と雨でずるずるする。余は夢中であるく。
 坂を下り切ると細い谷道で、その谷道が尽きたと思うあたりからまた向き直って西へ西へと爪上《つまあが》りに新しい谷道がつづく。この辺はいわゆる山の手の赤土で、少しでも雨が降ると下駄の歯を吸い落すほどに濘《ぬか》る。暗さは暗し、靴は踵《かかと》を深く土に据えつけて容易《たやす》くは動かぬ。曲りくねってむやみやたらに行くと枸杞垣《くこがき》とも覚しきものの鋭どく折れ曲る角《かど》でぱたりとまた赤い火に出《で》くわした。見ると巡査である。巡査はその赤い火を焼くまでに余の頬に押し当てて「悪るいから御気を付けなさい」と言い棄てて擦《す》れ違った。よく注意したまえと云った津田君の言葉と、悪いから御気をつけなさいと教えた巡査の言葉とは似ているなと思うとたちまち胸が鉛《なまり》のように重くなる。あの火だ、あの火だと余は息を切らして馳《か》け上る。
 どこをどう歩行《ある》いたとも知らず流星のごとく吾家《わがや
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