だ。黙って鏡の裏《うち》から夫の顔をしけじけ見詰めたぎりだそうだが、その時夫の胸の中《うち》に訣別《けつべつ》の時、細君の言った言葉が渦《うず》のように忽然《こつぜん》と湧《わ》いて出たと云うんだが、こりゃそうだろう。焼小手《やきごて》で脳味噌をじゅっと焚《や》かれたような心持だと手紙に書いてあるよ」
「妙な事があるものだな」手紙の文句まで引用されると是非共信じなければならぬようになる。何となく物騒《ぶっそう》な気合《けわい》である。この時津田君がもしワッとでも叫んだら余はきっと飛び上ったに相違ない。
「それで時間を調べて見ると細君が息を引き取ったのと夫《おっと》が鏡を眺《なが》めたのが同日同刻になっている」
「いよいよ不思議だな」この時《とき》に至っては真面目に不思議と思い出した。「しかしそんな事が有り得る事かな」と念のため津田君に聞いて見る。
「ここにもそんな事を書いた本があるがね」と津田君は先刻《さっき》の書物を机の上から取り卸しながら「近頃じゃ、有り得ると云う事だけは証明されそうだよ」と落ちつき払って答える。法学士の知らぬ間《ま》に心理学者の方では幽霊を再興しているなと思うと幽霊もいよいよ馬鹿に出来なくなる。知らぬ事には口が出せぬ、知らぬは無能力である。幽霊に関しては法学士は文学士に盲従しなければならぬと思う。
「遠い距離において、ある人の脳の細胞と、他の人の細胞が感じて一種の化学的変化を起すと……」
「僕は法学士だから、そんな事を聞いても分らん。要するにそう云う事は理論上あり得るんだね」余のごとき頭脳不透明なるものは理窟《りくつ》を承《うけたま》わるより結論だけ呑み込んで置く方が簡便である。
「ああ、つまりそこへ帰着するのさ。それにこの本にも例が沢山あるがね、その内でロード・ブローアムの見た幽霊などは今の話しとまるで同じ場合に属するものだ。なかなか面白い。君ブローアムは知っているだろう」
「ブローアム? ブローアムたなんだい」
「英国の文学者さ」
「道理で知らんと思った。僕は自慢じゃないが文学者の名なんかシェクスピヤとミルトンとそのほかに二三人しか知らんのだ」
 津田君はこんな人間と学問上の議論をするのは無駄だと思ったか「それだから宇野の御嬢さんもよく注意したまいと云う事さ」と話を元へ戻す。
「うん注意はさせるよ。しかし万一の事がありましたらきっと御目に懸
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