めあの人の詩を読んだ時はまるで物にならないような心持がしたが、何遍も読み過《すご》しているうちにだんだん面白くなって、しまいには非常に愛読するようになった。だから……
 書生に置いて貰う件は、まるでどこかへ飛んで行ってしまった。自分はただ成行《なりゆき》に任せてへえへえと云って聞いていた。何でもその時はシェレーが誰とかと喧嘩《けんか》をしたとか云う事を話して、喧嘩はよくない、僕は両方共好きなんだから、僕の好きな二人が喧嘩をするのははなはだよくないと故障を申し立てておられた。いくら故障を申し立てても、もう何十年か前に喧嘩をしてしまったのだから仕方がない。
 先生はそそっかしいから、自分の本などをよく置き違える。そうしてそれが見当《みあた》らないと、大いに焦《せ》きこんで、台所にいる婆さんを、ぼやでも起ったように、仰山《ぎょうさん》な声をして呼び立てる。すると例の婆さんが、これも仰山な顔をして客間へあらわれて来る。
「お、おれの『ウォーズウォース』はどこへやった」
 婆さんは依然として驚いた眼を皿のようにして一応|書棚《しょだな》を見廻しているが、いくら驚いてもはなはだたしかなもので、すぐに、「ウォーズウォース」を見つけ出す。そうして、「ヒヤ、サー」と云って、いささかたしなめるように先生の前に突きつける。先生はそれを引ったくるように受け取って、二本の指で汚《きた》ない表紙をぴしゃぴしゃ敲《たた》きながら、君、ウォーズウォースが……とやり出す。婆さんは、ますます驚いた眼をして台所へ退《さが》って行く。先生は二分も三分も「ウォーズウォース」を敲いている。そうしてせっかく捜《さが》して貰った「ウォーズウォース」をついに開けずにしまう。
 先生は時々手紙を寄こす。その字がけっして読めない。もっとも二三行だから、何遍でも繰返《くりかえ》して見る時間はあるが、どうしたって判定はできない。先生から手紙がくれば差支《さしつかえ》があって稽古《けいこ》ができないと云うことと断定して始めから読む手数《てすう》を省《はぶ》くようにした。たまに驚いた婆さんが代筆をする事がある。その時ははなはだよく分る。先生は便利な書記を抱《かか》えたものである。先生は、自分に、どうも字が下手で困ると嘆息していられた。そうして君の方がよほど上手だと云われた。
 こう云う字で原稿を書いたら、どんなものができるか心配でならない。先生はアーデン・シェクスピヤの出版者である。よくあの字が活版に変形する資格があると思う。先生は、それでも平気に序文をかいたり、ノートをつけたりして済《すま》している。のみならず、この序文を見ろと云ってハムレットへつけた緒言《しょげん》を読まされた事がある。その次行って面白かったと云うと、君日本へ帰ったら是非この本を紹介してくれと依頼された。アーデン・シェクスピヤのハムレットは自分が帰朝後大学で講義をする時に非常な利益を受けた書物である。あのハムレットのノートほど周到にして要領を得たものはおそらくあるまいと思う。しかしその時はさほどにも感じなかった。しかし先生のシェクスピヤ研究にはその前から驚かされていた。
 客間を鍵《かぎ》の手《て》に曲ると六畳ほどな小さな書斎がある。先生が高く巣をくっているのは、実を云うと、この四階の角で、その角のまた角に先生にとっては大切な宝物がある。――長さ一尺五寸幅一尺ほどな青表紙の手帳を約十冊ばかり併《なら》べて、先生はまがな隙《すき》がな、紙片《かみぎれ》に書いた文句をこの青表紙の中へ書き込んでは、吝坊《けちんぼう》が穴の開《あ》いた銭《ぜに》を蓄《ため》るように、ぽつりぽつりと殖《ふ》やして行くのを一生の楽みにしている。この青表紙が沙翁字典《さおうじてん》の原稿であると云う事は、ここへ来出《きだ》してしばらく立つとすぐに知った。先生はこの字典を大成するために、ウェールスのさる大学の文学の椅子を抛《なげう》って、毎日ブリチッシ・ミュージアムへ通う暇をこしらえたのだそうである。大学の椅子さえ抛つくらいだから、七|志《シルリング》の御弟子を疎末《そまつ》にするのは無理もない。先生の頭のなかにはこの字典が終日終夜|槃桓磅※[#「石+薄」、第3水準1−89−18]《ばんかんほうはく》しているのみである。
 先生、シュミッドの沙翁字彙《さおうじい》がある上にまだそんなものを作るんですかと聞いた事がある。すると先生はさも軽蔑《けいべつ》を禁じ得ざるような様子でこれを見たまえと云いながら、自己所有のシュミッドを出して見せた。見ると、さすがのシュミッドが前後二巻一頁として完膚《かんぷ》なきまで真黒になっている。自分はへえと云ったなり驚いてシュミッドを眺めていた。先生はすこぶる得意である。君、もしシュミッドと同程度のものを拵《こしら》えるく
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