御正月を眼前に控《ひか》えた妻は異《い》な顔をしている。子供が三箇日《さんがにち》にも着物を着換える事ができないのだそうだ。仕方がない。
昼過には刑事が来た。座敷へ上《あが》っていろいろ見ている。桶《おけ》の中に蝋燭《ろうそく》でも立てて仕事をしやしないかと云って、台所の小桶《こおけ》まで検《しら》べていた。まあ御茶でもおあがんなさいと云って、日当りの好い茶の間へ坐らせて話をした。
泥棒はたいてい下谷、浅草|辺《あたり》から電車でやって来て、明くる日の朝また電車で帰るのだそうだ。たいていは捉《つか》まらないものだそうだ。捉まえると刑事の方が損になるものだそうだ。泥棒を電車に乗せると電車賃が損になる。裁判に出ると、弁当代が損になる。機密費《きみつひ》は警視庁が半分取ってしまうのだそうだ。余りを各警察へ割りふるのだそうだ。牛込には刑事がたった三四人しかいないのだそうだ――警察の力ならたいていの事はできる者と信じていた自分は、はなはだ心細い気がした。話をして聞かせる刑事も心細い顔をしていた。
出入《でいり》のものを呼んで戸締りを直そうと思ったら生憎《あやにく》、暮で用が立て込んでいて来られない。そのうちに夜になった。仕方がないから、元の通りにしておいて寝る。みんな気味が悪そうである。自分もけっして好い心持ではない。泥棒は各自勝手に取締《とりしま》るべきものであると警察から宣告されたと一般だからである。
それでも昨日《きのう》の今日《きょう》だから、まあ大丈夫だろうと、気を楽に持って枕に就《つ》いた。するとまた夜中に妻《さい》から起された。さっきから、台所の方ががたがた云っている。気味がわるいから起きて見て下さいと云う。なるほどがたがたいう。妻はもう泥棒が這入《はい》ったような顔をしている。
自分はそっと床を出た。忍び足に妻の部屋を横切って、隔《へだ》ての襖《ふすま》の傍《そば》までくると、次の間では下女が鼾《いびき》をかいている。自分はできるだけ静かに襖を開けた。そうして、真暗な部屋の中に一人立った。ごとりごとりと云う音がする。たしかに台所の入口である。暗いなかを影の動くように三歩《みあし》ほど音のする方へ近《ちかづ》くと、もう部屋の出口である。障子《しょうじ》が立っている。そとはすぐ板敷になる。自分は障子に身を寄せて、暗がりで耳を立てた。やがて、ごとりと云った
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