のである。余の見るところではコンラッドはその調子を取らない。
これではまだ日高君は首肯されないかも知れないからもっとも著《いちじる》しい例を挙《あ》げると、ゼ・ニガー・オブ・ゼ・ナーシッサスのようなものである。これは一人の黒奴が、ナーシッサスと云う船に乗り込んで航海の途中に病死する物語であるが、黒奴の船中生活を叙したものとしては、いかにも幼稚で、できが悪い。しかし航海の描写としては例の通り雄健蒼勁《ゆうけんそうけい》の極を尽したものである。だから、余の希望から云うと、なまじいに普通の小説じみた黒奴という主人公の経歴はやめて、全くの航海描写としたらば好かろうと思うのである。しからざればいらざる風濤《ふうとう》の描写を割《さ》いて、主人公の身辺に起る波瀾《はらん》成行をもう少し上手に手際《てぎわ》よく叙したらば好かろうと思う。
普通の小説のような脚色がありながら、その方の筋はいっこうできていないで、かえって自然力の活動ばかり目醒《めざま》しいので、余はこれを主客|顛倒《てんとう》と評したのである。ところが短かい談話で、国民文学記者にコンラッドだけを詳《くわ》しく話す余地がなかったので、ついと日高君の誤解を招くに至ったのは残念である。
要するに日高君の御説ははなはだごもっともなのである。けれども余のコンラッドを非難した意味、及びこの意味において非難すべき作物をコンラッドが書いたと云う事も、日高君が承認されん事を希望する。
この答弁は日高君に対してのみならず、世間の読者のうちで、まだコンラッドを知らずして、余の説と日高君の説の矛盾だけを見てその調和に苦しむ人のために草したのである。
底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月にかけて刊行
入力:柴田卓治
校正:大野晋
1999年6月14日公開
2003年11月28日修正
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