》う様子もなく、あながち日本を嫌《きら》う気色《けしき》もなく、自分の性格とは容《い》れにくいほどに矛盾な乱雑な空虚にして安っぽいいわゆる新時代の世態《せたい》が、周囲の過渡層の底からしだいしだいに浮き上って、自分をその中心に陥落せしめねばやまぬ勢を得つつ進むのを、日ごと眼前に目撃しながら、それを別世界に起る風馬牛の現象のごとくよそに見て、極《きわ》めて落ちついた十八年を吾邦《わがくに》で過ごされた。先生の生活はそっと煤煙《ばいえん》の巷《ちまた》に棄《す》てられた希臘《ギリシャ》の彫刻に血が通い出したようなものである。雑鬧《ざっとう》の中に己《おの》れを動かしていかにも静かである。先生の踏む靴の底には敷石を噛《か》む鋲《びょう》の響がない。先生は紀元前の半島の人のごとくに、しなやかな革《かわ》で作ったサンダルを穿《は》いておとなしく電車の傍《そば》を歩《あ》るいている。
 先生は昔《むか》し烏《からす》を飼っておられた。どこから来たか分らないのを餌《え》をやって放し飼にしたのである。先生と烏とは妙な因縁《いんえん》に聞える。この二つを頭の中で結びつけると一種の気持が起《おこ》る。先生が大学の図書館で書架の中からポーの全集を引きおろしたのを見たのは昔の事である。先生はポーもホフマンも好きなのだと云う。この夕《ゆうべ》その烏の事を思い出して、あの烏はどうなりましたと聞いたら、あれは死にました、凍《こご》えて死にました。寒い晩に庭の木の枝に留《とま》ったまんま、翌日《あくるひ》になると死んでいましたと答えられた。
 烏のついでに蝙蝠《こうもり》の話が出た。安倍君が蝙蝠は懐疑《スケプチック》な鳥だと云うから、なぜと反問したら、でも薄暗がりにはたはた飛んでいるからと謎《なぞ》のような答をした。余は蝙蝠の翼《はね》が好《すき》だと云った。先生はあれは悪魔の翼だと云った。なるほど画《え》にある悪魔はいつでも蝙蝠の羽根を背負《しょ》っている。
 その時夕暮の窓際《まどぎわ》に近く日暮《ひぐら》しが来て朗らに鋭どい声を立てたので、卓を囲んだ四人《よつたり》はしばらくそれに耳を傾《かたむ》けた。あの鳴声にも以太利《イタリヤ》の連想があるでしょうと余は先生に尋ねた。これは先生が少し前に蜥蜴《とかげ》が美くしいと云ったので、青く澄んだ以太利の空を思い出させやしませんかと聞いたら、そうだと答えられたからである。しかし日暮しの時には、先生は少し首を傾《かた》むけて、いや彼《あれ》は以太利じゃない、どうも以太利では聞いた事がないように思うと云われた。
 余らは熱い都の中心に誤って点ぜられたとも見える古い家の中で、静かにこんな話をした。それから菊の話と椿《つばき》の話と鈴蘭《すずらん》の話をした。果物の話もした。その果物のうちでもっとも香りの高い遠い国から来たレモンの露《つゆ》を搾《しぼ》って水に滴《したた》らして飲んだ。珈琲《コーヒー》も飲んだ。すべての飲料のうちで珈琲が一番|旨《うま》いという先生の嗜好《しこう》も聞いた。それから静かな夜《よ》の中に安倍君と二人で出た。
 先生の顔が花やかな演奏会に見えなくなってから、もうよほどになる。先生はピヤノに手を触れる事すら日本に来ては口外せぬつもりであったと云う。先生はそれほど浮いた事が嫌《きらい》なのである。すべての演奏会を謝絶した先生は、ただ自分の部屋で自分の気に向いたときだけ楽器の前に坐る、そうして自分の音楽を自分だけで聞いている。そのほかにはただ書物を読んでいる。
 文科大学へ行って、ここで一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人の学生が九十人までは、数ある日本の教授の名を口にする前に、まずフォン・ケーベルと答えるだろう。かほどに多くの学生から尊敬される先生は、日本の学生に対して終始《しゅうし》渝《かわ》らざる興味を抱《いだ》いて、十八年の長い間哲学の講義を続けている。先生が疾《と》くに索寞《さくばく》たる日本を去るべくして、いまだに去らないのは、実にこの愛すべき学生あるがためである。
 京都の深田教授が先生の家にいる頃、いつでも閑《ひま》な時に晩餐《ばんさん》を食べに来いと云われてから、行かずに経過した月日を数えるともう四年以上になる。ようやくその約を果《はた》して安倍君といっしょに大きな暗い夜《よ》の中に出た時、余は先生はこれから先、もう何年ぐらい日本にいるつもりだろうと考えた。そうして一度日本を離れればもう帰らないと云われた時、先生の引用した“no more《ノーモアー》, never more《ネヴァーモアー》.”というポーの句を思い出した。


底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
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