と接触し始めて、またその影響がどう働らいて、黒船着後に至って全局面の劇変を引き起したかという点にあったものと見える。それを一通り調べてもまだ足らぬ所があるので、やはり上代《じょうだい》から漕《こ》ぎ出して、順次に根気よく人文発展の流《ながれ》を下って来ないと、この突如たる勃興《ぼっこう》の真髄が納得《なっとく》出来ないという意味から、次に上代以後|足利《あしかが》氏に至るまでを第一巻として発表されたものと思われる。そうは断ってないけれども、緒論を読むとその辺の消息が多少|窺《うかが》われるような気もする。
従って緒論に現われた先生は、出来得る限りの範囲において、われらが最近五十年間の豹変《ひょうへん》に対する説明を、箇条《かじょう》がきの如くに与えておられる。その内にはちょっとわれらの思い設けぬ解釈さえある。西洋人が予期せざる日本の文明に驚ろくのは、彼らが開化という観念を誤まり伝えて、耶蘇《ヤソ》教的カルチュアーと同意義のものでなければ、開化なる語を冠《かん》すべきものでないと自信していたからであるというが如きはその一例である。西洋の開化と耶蘇教的カルチュアーと密切《みっせつ》の関係のある事は誰でも知っているが、耶蘇教的カルチュアーでなければ開化といえないとは、普通の日本人にどうしても考え得られない点である。けれどもそれが西洋人一般の判断だと、先生から注意されて見ると、なるほどと首肯《しゅこう》せざるを得ない。こういう意味において、先生の著述は日本を外国に紹介する上に非常な利益があるばかりでなく、研究心に富んだ外国人が、われら自身を如何に観察しているかを知る便宜もまた甚《はなは》だ少なくないのである。
西洋の雑誌を見ると、日本に関した著述の広告は、一週に一、二冊はきっと出ている。近頃ではこれらの書籍を蒐集《しゅうしゅう》しただけでも優《ゆう》に相応の図書館は一杯になるだろうと思われる位である。けれども真の観察と、真の努力と、真の同情と、真の研究から成《な》ったものは極めて乏しいと断言しても差支はあるまい。余《よ》はこの乏しいものの一として、先生の歴史をわれら日本人に紹介する機会を得たのを愉快に思う。
歴史は過去を振返った時始めて生れるものである。悲しいかな今のわれらは刻々に押し流されて、瞬時も一所に※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》して、われらが歩んで来た道を顧みる暇《いとま》を有《も》たない。われらの過去は存在せざる過去の如くに、未来のために蹂躙《じゅうりん》せられつつある。われらは歴史を有せざる成《な》り上《あが》りものの如くに、ただ前へ前へと押されて行く。財力、脳力、体力、道徳力、の非常に懸《か》け隔《へだ》たった国民が、鼻と鼻とを突き合せた時、低い方は急に自己の過去を失ってしまう。過去などはどうでもよい、ただこの高いものと同程度にならなければ、わが現在の存在をも失うに至るべしとの恐ろしさが彼らを真向《まとも》に圧迫するからである。
われらはただ二つの眼《め》を有《も》っている。そうしてその二つの眼は二つながら、昼夜《ちゅうや》ともに前を望んでいる。そうして足の眼に及ばざるを恨みとして、焦慮《あせり》に焦慮《あせっ》て、汗を流したり呼息《いき》を切らしたりする。恐るべき神経衰弱はペストよりも劇《はげ》しき病毒を社会に植付けつつある。夜番《よばん》のために正宗《まさむね》の名刀と南蛮鉄《なんばんてつ》の具足《ぐそく》とを買うべく余儀なくせられたる家族は、沢庵《たくあん》の尻尾《しっぽ》を噛《かじ》って日夜|齷齪《あくせく》するにもかかわらず、夜番の方では頻《しき》りに刀と具足の不足を訴えている。われらは渾身《こんしん》の気力を挙げて、われらが過去を破壊しつつ、斃《たお》れるまで前進するのである。しかもわれらが斃れる時、われらの烟突《えんとつ》が西洋の烟突の如く盛んな烟《けむ》りを吐《は》き、われらの汽車が西洋の汽車の如く広い鉄軌《てっき》を走り、われらの資本が公債となって西洋に流用せられ、われらの研究と発明と精神事業が畏敬《いけい》を以て西洋に迎えらるるや否やは、どう己惚《うぬぼ》れても大いなる疑問である。マードック先生がわれらの現在に驚嘆してわれらの過去を研究されると同時に、われらはわれらの現在から刻々に追い捲《まく》られて、われらの未来をかくの如く悲観している。余はわれらの過去に対する先生の著書を紹介するのついでを以て、われらの運命に関しての未来観をも一言《いちごん》先生に告げて置きたいと思う。
[#地から2字上げ]――明治四四、三、一六―一七『東京朝日新聞』――
底本:「漱石文明論集」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
1998(平
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