ない。だから細君の愛を他《ほか》へ移さない様にするのが、却つて夫《おつと》の義務だらう」
「よし僕が君の期待する通り三千代を愛してゐなかつた事が事実としても」と平岡は強いて己《おのれ》を抑《おさ》える様に云つた。拳《こぶし》を握つてゐた。代助は相手の言葉の尽《つ》きるのを待つた。
「君は三年前の事を覚えてゐるだらう」と平岡は又句を更《か》へた。
「三年前は君が三千代さんと結婚した時だ」
「さうだ。其|時《とき》の記憶が君の頭《あたま》の中《なか》に残つてゐるか」
 代助の頭《あたま》は急に三年前に飛《と》び返《かへ》つた。当時の記憶が、闇《やみ》を回《めぐ》る松明《たいまつ》の如く輝《かゞや》いた。
「三千代を僕に周旋しやうと云ひ出したものは君だ」
「貰《もら》いたいと云ふ意志を僕に打ち明けたものは君だ」
「それは僕だつて忘れやしない。今に至る迄君の厚意を感謝してゐる」
 平岡は斯う云つて、しばらく冥想してゐた。
「二人《ふたり》で、夜《よる》上野《うへの》を抜《ぬ》けて谷中《やなか》へ下《お》りる時だつた。雨上《あめあが》りで谷中《やなか》の下《した》は道《みち》が悪《わる》かつた。博物館の前から話しつゞけて、あの橋《はし》の所迄|来《き》た時、君は僕の為《ため》に泣いて呉れた」
 代助は黙然としてゐた。
「僕は其時程朋友を難有いと思つた事はない。嬉《うれ》しくつて其晩は少しも寐《ね》られなかつた。月のある晩《ばん》だつたので、月の消える迄起きてゐた」
「僕もあの時は愉快だつた」と代助が夢の様に云つた。それを平岡は打ち切る勢で遮《さへぎ》つた。――
「君は何だつて、あの時僕の為《ため》に泣いて呉れたのだ。なんだつて、僕の為《ため》に三千代を周旋しやうと盟《ちか》つたのだ。今日《こんにち》の様な事を引き起す位なら、何故《なぜ》あの時、ふんと云つたなり放《ほう》つて置いて呉れなかつたのだ。僕は君から是程深刻な復讐《かたき》を取られる程、君に向つて悪い事をした覚《おぼえ》がないぢやないか」
 平岡は声を顫《ふる》はした。代助の蒼《あを》い額に汗《あせ》の珠《たま》が溜《たま》つた。さうして訴たへる如くに云つた。
「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛してゐたのだよ」
 平岡は茫然として、代助の苦痛の色を眺めた。
「其時の僕は、今の僕でなかつた。君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望《のぞ》みを叶《かな》へるのが、友達の本分だと思つた。それが悪《わる》かつた。今位|頭《あたま》が熟してゐれば、まだ考へ様があつたのだが、惜しい事に若《わか》かつたものだから、余りに自然を軽蔑し過《す》ぎた。僕はあの時の事を思つては、非常な後悔の念に襲はれてゐる。自分の為《ため》ばかりぢやない。実際君の為《ため》に後悔してゐる。僕が君に対して真に済まないと思ふのは、今度の事件より寧ろあの時僕がなまじいに遣《や》り遂《と》げた義侠心だ。君、どうぞ勘弁して呉れ。僕は此通り自然に復讐《かたき》を取られて、君の前に手を突いて詫《あや》まつてゐる」
 代助は涙《なみだ》を膝《ひざ》の上《うへ》に零《こぼ》した。平岡の眼鏡《めがね》が曇つた。

       十六の十

「どうも運命だから仕方《しかた》がない」
 平岡は呻吟《うめ》く様な声を出《だ》した。二人《ふたり》は漸く顔《かほ》を見合せた。
「善後策に就て君の考があるなら聞かう」
「僕は君の前に詫《あや》まつてゐる人間だ。此方《こつち》から先《さき》へそんな事を云ひ出す権利はない。君の考から聞くのが順だ」と代助が云つた。
「僕には何《なん》にもない」と平岡は頭《あたま》を抑えてゐた。
「では云ふ。三千代さんを呉れないか」と思ひ切つた調子に出た。
 平岡は頭《あたま》から手を離して、肱を棒の様に洋卓《てえぶる》の上に倒した。同時に、
「うん遣《や》らう」と云つた。さうして代助が返事をし得ないうちに、又繰り返した。
「遣《や》る。遣《や》るが、今《いま》は遣《や》れない。僕は君の推察通り夫程三千代を愛して居なかつたかも知れない。けれども悪《にく》んぢやゐなかつた。三千代は今病気だ。しかも余り軽い方ぢやない。寐《ね》てゐる病人を君に遣《や》るのは厭《いや》だ。病気が癒《なほ》る迄君に遣《や》れないとすれば、夫迄は僕が夫《おつと》だから、夫《おつと》として看護する責任がある」
「僕は君に詫《あやま》つた。三千代さんも君に詫《あや》まつてゐる。君から云へば二人《ふたり》とも、不埒な奴《やつ》には相違ないが、――幾何《いくら》詫《あや》まつても勘弁|出来《でき》んかも知れないが、――何しろ病気をして寐《ね》てゐるんだから」
「夫《それ》は分《わか》つてゐる。本人の病気に付《つ》け込んで僕が意趣|晴《ば》らしに
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