此際に執るべき方針は云はずして明《あき》らかであつた。三千代との関係を撤回する不便なしに、父に満足を与へる為《ため》の結婚を承諾するに外《ほか》ならなかつた。代助は斯《か》くして双方を調和する事が出来《でき》た。何方付《どつちつ》かずに真中《まんなか》へ立《た》つて、煮え切らずに前進する事は容易であつた。けれども、今《いま》の彼《かれ》は、不断《ふだん》の彼とは趣《おもむき》を異にしてゐた。再び半身を埒外《らつぐわい》に挺《ぬきん》でて、余人と握手するのは既に遅《おそ》かつた。彼は三千代に対する自己の責任を夫程深く重いものと信じてゐた。彼の信念は半《なか》ば頭《あたま》の判断から来《き》た。半ば心《こゝろ》の憧憬から来《き》た。二つのものが大きな濤《なみ》の如くに彼を支配した。彼は平生の自分から生れ変つた様に父《ちゝ》の前に立《た》つた。
彼《かれ》は平生の代助の如く、成る可く口数《くちかず》を利《き》かずに控《ひか》えてゐた。父《ちゝ》から見れば何時《いつ》もの代助と異なる所はなかつた。代助の方では却つて父《ちゝ》の変《かは》つてゐるのに驚ろいた。実は此間から幾度《いくたび》も会見を謝絶されたのも、自分が父《ちゝ》の意志に背く恐《おそれ》があるから父《ちゝ》の方でわざと、延《の》ばしたものと推してゐた。今日《けふ》逢《あ》つたら、定めて苦《にが》い顔をされる事と覚悟を極《き》めてゐた。ことによれば、頭《あたま》から叱《しか》り飛《と》ばされるかも知れないと思つた。代助には寧ろ其方《そのほう》が都合が好《よ》かつた。三|分《ぶ》の一《いち》は、父《ちゝ》の暴怒《ぼうど》に対する自己の反動を、心理的に利用して、判然《きつぱり》断《ことわ》らうと云ふ下心《したごゝろ》さへあつた。代助は父《ちゝ》の様子、父《ちゝ》の言葉|遣《つかひ》、父の主意、凡てが予期に反して、自分の決心を鈍《にぶ》らせる傾向に出《で》たのを心苦しく思つた。けれども彼は此|心苦《こゝろぐる》しさにさへ打ち勝つべき決心を蓄《たくは》へた。
「貴方《あなた》の仰《おつ》しやる所は一々《いち/\》御尤もだと思ひますが、私《わたくし》には結婚を承諾する程の勇気がありませんから、断《ことわ》るより外に仕方がなからうと思ひます」ととう/\云つて仕舞つた。其時|父《ちゝ》はたゞ代助の顔《かほ》を見てゐた。良《やゝ》あつて、
「勇気が要《い》るのかい」と手に持《も》つてゐた烟管《きせる》を畳《たゝみ》の上《うへ》に放《ほう》り出《だ》した。代助は膝頭《ひざがしら》を見詰めて黙《だま》つてゐた。
「当人が気に入らないのかい」と父が又|聞《き》いた。代助は猶返事をしなかつた。彼は今迄|父《ちゝ》に対して己《おの》れの四半分も打ち明《あ》けてはゐなかつた。その御|蔭《かげ》で父《ちゝ》と平和の関係を漸く持続して来《き》た。けれども三千代の事丈は始めから決して隠《かく》す気はなかつた。自分の頭《あたま》の上《うへ》に当然落ちかゝるべき結果を、策で避《さ》ける卑怯が面白くなかつたからである。彼はたゞ自白の期に達してゐないと考へた。従つて三千代の名は丸で口《くち》へは出《だ》さなかつた。父《ちゝ》は最後に、
「ぢや何《なん》でも御前《おまへ》の勝手にするさ」と云つて苦《にが》い顔《かほ》をした。
代助も不愉快であつた。然し仕方がないから、礼をして父《ちゝ》の前《まへ》を退《さ》がらうとした。ときに父《ちゝ》は呼び留《と》めて、
「己《おれ》の方でも、もう御前《おまへ》の世話はせんから」と云つた。座敷へ帰つた時、梅子は待ち構へた様に、
「何《ど》うなすつて」と聞いた。代助は答へ様もなかつた。
十六の一
翌日《あくるひ》眼《め》が覚《さ》めても代助の耳の底《そこ》には父《ちゝ》の最後の言葉が鳴《な》つてゐた。彼《かれ》は前後の事情から、平生以上の重《おも》みを其内容に附着しなければならなかつた。少《すく》なくとも、自分丈では、父《ちゝ》から受ける物質的の供給がもう絶えたものと覚悟する必要があつた。代助の尤も恐るゝ時期は近づいた。父《ちゝ》の機嫌を取り戻《もど》すには、今度の結婚を断るにしても、あらゆる結婚に反対してはならなかつた。あらゆる結婚に反対しても、父《ちゝ》を首肯《うなづ》かせるに足る程の理由を、明白に述べなければならなかつた。代助に取つては二つのうち何《いづ》れも不可能であつた。人生に対する自家の哲学《フヒロソフヒー》の根本に触れる問題に就いて、父《ちゝ》を欺くのは猶更不可能であつた。代助は昨日《きのふ》の会見を回顧して、凡てが進むべき方向に進んだとしか考へ得なかつた。けれども恐ろしかつた。自己が自己に自然な因果を発展させながら、其因果の重《おも》みを脊中《せ
前へ
次へ
全123ページ中108ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング