、腹《はら》の中《なか》で、
「万事終る」と宣告した。
雨は夕方|歇《や》んで、夜《よ》に入つたら、雲がしきりに飛《と》んだ。其|中《うち》洗つた様な月が出《で》た。代助は光《ひかり》を浴《あ》びる庭の濡葉《ぬれは》を長い間《あひだ》椽側から眺《なが》めてゐたが、仕舞に下駄を穿《は》いて下《した》へ降《お》りた。固より広い庭でない上《うへ》に立木《たちき》の数《かず》が存外多いので、代助の歩《ある》く積《せき》はたんと無《な》かつた。代助は其|真中《まんなか》に立つて、大《おほ》きな空《そら》を仰いだ。やがて、座敷から、昼間《ひるま》買つた百合《ゆり》の花を取つて来《き》て、自分の周囲《まはり》に蒔《ま》き散らした。白い花瓣《くわべん》が点々《てん/\》として月の光《ひかり》に冴《さ》えた。あるものは、木下|闇《やみ》に仄《ほの》めいた。代助は何をするともなく其|間《あひだ》に曲《かゞ》んでゐた。
寐る時になつて始めて座敷へ上《あ》がつた。室《へや》の中《なか》は花の香《にほひ》がまだ全く抜《ぬ》けてゐなかつた。
十五の一
三千代に逢つて、云ふべき事を云つて仕舞つた代助は、逢はない前に比べると、余程心の平和に接近し易くなつた。然し是は彼の予期する通りに行《い》つた迄で、別に意外の結果と云ふ程のものではなかつた。
会見の翌日彼は永らく手に持つてゐた賽《さい》を思ひ切つて投《な》げた人の決心を以て起きた。彼は自分と三千代の運命に対して、昨日《きのふ》から一種の責任を帯びねば済まぬ身《み》になつたと自覚した。しかも夫《それ》は自《みづか》ら進んで求めた責任に違《ちが》いなかつた。従つて、それを自分の脊《せ》に負ふて、苦しいとは思へなかつた。その重《おも》みに押されるがため、却つて自然と足《あし》が前に出る様な気がした。彼は自《みづか》ら切り開いた此運命の断片を頭《あたま》に乗《の》せて、父《ちゝ》と決戦すべき準備を整へた。父《ちゝ》の後《あと》には兄《あに》がゐた、嫂《あによめ》がゐた。是等と戦つた後《あと》には平岡がゐた。是等を切り抜《ぬ》けても大きな社会があつた。個人の自由と情実を毫も斟酌して呉《く》れない器械の様な社会があつた。代助には此社会が今全然暗黒に見えた。代助は凡てと戦ふ覚悟をした。
彼は自分で自分の勇気と胆力に驚ろいた。彼は今日迄、熱烈を厭ふ、危きに近寄り得ぬ、勝|負事《ぶごと》を好まぬ、用心深い、太平の好紳士と自分を見傚してゐた。徳義上重大な意味の卑怯はまだ犯した事がないけれども、臆病と云ふ自覚はどうしても彼《かれ》の心から取り去る事が出来なかつた。
彼は通俗なある外国雑誌の購読者であつた。其|中《なか》のある号で、Mountain《マウンテン》 Accidents《アクシデンツ》 と題する一篇に遭《あ》つて、かつて心《こゝろ》を駭《おどろ》かした。夫《それ》には高山を攀《よ》ぢ上《のぼ》る冒険者の、怪我|過《あやまち》が沢山に並《なら》べてあつた。登山の途中|雪崩《ゆきなだ》れに圧《お》されて、行き方知れずになつたものゝ骨が、四十年|後《ご》に氷河の先《さき》へ引|懸《かゝ》つて出《で》た話や、四人の冒険者が懸崖の半腹にある、真直に立つた大きな平《ひら》岩を越すとき、肩から肩の上へ猿《さる》の様に重《かさ》なり合つて、最上の一人の手が岩《いは》の鼻へ掛かるや否や、岩《いは》が崩《くづ》れて、腰の縄が切れて、上の三人が折り重なつて、真逆様に四番目の男の傍《そば》を遥かの下に落ちて行つた話などが、幾何《いくつ》となく載せてあつた間に、錬瓦《れんぐわ》の壁《かべ》程急な山腹《さんぷく》に、蝙蝠《かうもり》の様に吸《す》ひ付いた人間《にんげん》を二三ヶ所点綴した挿画《さしゑ》があつた。其時代助は其絶壁の横《よこ》にある白い空間のあなたに、広《ひろ》い空《そら》や、遥かの谷《たに》を想像して、怖《おそ》ろしさから来《く》る眩暈《めまひ》を、頭《あたま》の中《なか》に再|現《げん》せずには居られなかつた。
代助は今道徳界に於て、是等の登攀者と同一な地位に立つてゐると云ふ事を知つた。けれども自《みづか》ら其場に臨んで見ると、怯《ひる》む気は少しもなかつた。怯《ひる》んで猶予する方が彼に取つては幾倍の苦痛であつた。
彼は一日《いちじつ》も早く父《ちゝ》に逢つて話《はなし》をしたかつた。万一の差支を恐れて、三千代が来《き》た翌日、又電話を掛けて都合を聞き合せた。父《ちゝ》は留守だと云ふ返事を得た。次《つぎ》の日又問ひ合せたら、今度は差支があると云つて断《ことわ》られた。其次には此方《こちら》から知らせる迄は来《く》るに及ばんといふ挨拶であつた。代助は命令通り控《ひか》えてゐた。其間|嫂《あによめ》
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