「そら来《き》た。ね。だから一所に連《つ》れて行《い》つて御貰《おもらひ》よ」と梅子に話しかけた。代助には何の意味だか固より分《わか》らなかつた。すると、梅子が代助の方に向き直つた。
「代さん、今日《けふ》貴方《あなた》、無論|暇《ひま》でせう」と云つた。
「えゝ、まあ暇《ひま》です」と代助は答へた。
「ぢや、一所に歌舞伎座へ行《い》つて頂戴」
 代助は嫂《あによめ》の此言葉を聞いて、頭《あたま》の中《なか》に、忽ち一種の滑稽を感じた。けれども今日《けふ》は平常《いつも》の様に、嫂《あによめ》に調戯《からか》ふ勇気がなかつた。面倒だから、平気な顔《かほ》をして、
「えゝ宜《よろ》しい、行《い》きませう」と機嫌《きげん》よく答へた。すると梅子は、
「だつて、貴方《あなた》は、最早《もう》、一遍|観《み》たつて云ふんぢやありませんか」と聞《き》き返した。
「一遍だらうが、二遍だらうが、些《ちつ》とも構《かま》はない。行《い》きませう」と代助は梅子を見て微笑した。
「貴方《あなた》も余っ程道楽ものね」と梅子が評した。代助は益滑稽を感《かん》じた。
 兄《あに》は用があると云つて、すぐ出《で》て行《い》つた。四時頃用が済《す》んだら芝居の方へ回る約束なんださうである。それ迄自分と縫子丈で見てゐたら好《よ》ささうなものだが、梅子は夫《それ》が厭《いや》だと云つた。そんなら直木を連れて行《い》けと兄《あに》から注意された時、直木は紺絣《こんがすり》を着《き》て、袴《はかま》を穿《は》いて、六づかしく坐《すは》つてゐて不可《いけ》ないと答へた。夫《それ》で仕方がないから代助を迎ひに遣《や》つたのだ、と、是は兄《あに》が出掛《でがけ》の説明であつた。代助は少々理窟に合はないと思つたが、たゞ、左様《さう》ですかと答へた。さうして、嫂《あによめ》は幕《まく》の相間《あひま》に話《はな》し相手が欲《ほし》いのと、夫《それ》からいざと云ふ時《とき》に、色々《いろ/\》用を云ひ付けたいものだから、わざ/\自分を呼び寄《よ》せたに違ないと解釈した。
 梅子と縫子は長い時間を御|化《け》粧に費やした。代助は懇よく御化粧の監督者になつて、両人《ふたり》の傍《そば》に附《つ》いてゐた。さうして時々は、面白|半分《はんぶん》の冷《ひや》かしも云つた。縫子からは叔父《おぢ》さん随分だわを二三度繰り返《かへ》された。
 父《ちゝ》は今朝《けさ》早くから出《で》て、家《うち》にゐなかつた。何処《どこ》へ行つたのだか、嫂《あによめ》は知らないと云つた。代助は別に知りたい気もなかつた。たゞ父のゐないのが難有かつた。此間《このあひだ》の会見以後、代助は父とはたつた二度程しか顔《かほ》を合せなかつた。それも、ほんの十分か十五分に過《す》ぎなかつた。話が込み入りさうになると、急に叮嚀な御辞義をして立つのを例にしてゐた。父《ちゝ》は座敷の方へ出《で》て来《き》て、どうも代助は近頃少しも尻が落ち付かなくなつた。おれの顔さへ見れば逃《に》げ支度をすると云つて怒《おこ》つた。と嫂《あによめ》は鏡《かゞみ》の前で夏帯《なつおび》の尻を撫でながら代助に話した。
「ひどく、信用を落《おと》したもんだな」
 代助は斯う云つて、嫂《あによめ》と縫子《ぬひこ》の蝙蝠傘《かはほりがさ》を抱《さ》げて一足《ひとあし》先へ玄関へ出《で》た。車はそこに三挺|并《なら》んでゐた。

       十一の七

 代助は風《かぜ》を恐れて鳥打《とりうち》帽を被《かぶ》つてゐた。風《かぜ》は漸く歇《や》んで、強い日《ひ》が雲《くも》の隙間《すきま》から頭《あたま》の上《うへ》を照《て》らした。先《さき》へ行《ゆ》く梅子と縫子は傘《かさ》を広《ひろ》げた。代助は時々《とき/″\》手《て》の甲《かう》を額《ひたひ》の前《まへ》に翳《かざ》した。
 芝居の中《なか》では、嫂《あによめ》も縫《ぬひ》子も非常に熱心な観客《けんぶつ》であつた。代助は二返|目《め》の所為《せゐ》といひ、此|三四日来《さんよつからい》の脳の状態からと云ひ、左様《さう》一図に舞台ばかりに気を取《と》られてゐる訳《わけ》にも行《い》かなかつた。堪えず精神に重苦しい暑《あつさ》を感ずるので、屡|団扇《うちは》を手《て》にして、風《かぜ》を襟《えり》から頭《あたま》へ送《おく》つてゐた。
 幕《まく》の合間《あひま》に縫子が代助の方を向《む》いて時々《とき/″\》妙な事を聞《き》いた。何故《なぜ》あの人は盥《たらひ》で酒を飲むんだとか、何故《なぜ》坊さんが急に大将になれるんだとか、大抵説明の出来ない質問のみであつた。梅子はそれを聞くたんびに笑つてゐた。代助は不図二三日前新聞で見た、ある文学者の劇評を思ひ出《だ》した。それには、日本の脚本が、あまりに突飛
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