貴方《あなた》、此花《このはな》、御嫌《おきらひ》なの?」
代助は椅子の足《あし》を斜《なゝめ》に立てゝ、身体《からだ》を後《うしろ》へ伸《のば》した儘、答へをせずに、微笑して見せた。
「ぢや、買《か》つて来《こ》なくつても好《よ》かつたのに。詰《つま》らないわ、回《まは》り路《みち》をして。御|負《まけ》に雨《あめ》に降《ふ》られ損《そく》なつて、息《いき》を切《き》らして」
雨《あめ》は本当に降《ふ》つて来た。雨滴《あまだれ》が樋に集《あつ》まつて、流れる音《おと》がざあと聞《きこ》えた。代助は椅子から立ち上《あ》がつた。眼《め》の前《まへ》にある百合の束《たば》を取り上《あ》げて、根元《ねもと》を括《くゝ》つた濡藁《ぬれわら》を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り切《き》つた。
「僕に呉れたのか。そんなら早く活《い》けやう」と云ひながら、すぐ先刻《さつき》の大鉢《おほはち》の中《なか》に投《な》げ込《こ》んだ。茎《くき》が長《なが》すぎるので、根《ね》が水《みづ》を跳《は》ねて、飛《と》び出《だ》しさうになる。代助は滴《したゝ》る茎《くき》を又《また》鉢《はち》から抜《ぬ》いた。さうして洋卓《テーブル》の引出《ひきだし》から西洋|鋏《はさみ》を出《だ》して、ぷつり/\と半分《はんぶん》程の長さに剪《き》り詰《つ》めた。さうして、大きな花《はな》を、リリー、オフ、ゼ、※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]レーの簇《むら》がる上《うへ》に浮《う》かした。
「さあ是《これ》で好《い》い」と代助は鋏《はさみ》を洋卓《テーブル》の上《うへ》に置いた。三千代は此不思議に無作法に活《い》けられた百合を、しばらく見てゐたが、突然《とつぜん》、
「あなた、何時《いつ》から此花が御|嫌《きらひ》になつたの」と妙な質問をかけた。
昔し三千代の兄《あに》がまだ生《い》きてゐる時分、ある日|何《なに》かのはづみに、長い百合《ゆり》を買《か》つて、代助が谷中《やなか》の家《いへ》を訪《たづ》ねた事があつた。其時《そのとき》彼は三千代に危《あや》しげな花瓶《はないけ》の掃除をさして、自分で、大事さうに買つて来《き》た花《はな》を活《い》けて、三千代にも、三千代の兄《あに》にも、床《とこ》へ向直《むきなほ》つて眺《なが》めさした事があつた。三千代はそれを覚えてゐたのである。
「貴方《あなた》だつて、鼻《はな》を着《つ》けて嗅《か》いで入らしつたぢやありませんか」と云つた。代助はそんな事があつた様にも思つて、仕方なしに苦笑した。
十の六
そのうち雨《あめ》は益《ます/\》深《ふか》くなつた。家《いへ》を包《つゝ》んで遠い音《おと》が聴《きこ》えた。門野《かどの》が出《で》て来《き》て、少《すこ》し寒《さむ》い様ですな、硝子戸《がらすど》を閉《し》めませうかと聞《き》いた。硝子戸《がらすど》を引《ひ》く間《あひだ》、二人《ふたり》は顔《かほ》を揃《そろ》えて庭《には》の方を見《み》てゐた。青《あを》い木《き》の葉《は》が悉《ことごと》く濡《ぬ》れて、静《しづ》かな湿《しめ》り気《け》が、硝子越《がらすごし》に代助の頭《あたま》に吹《ふ》き込《こ》んで来《き》た。世《よ》の中《なか》の浮《う》いてゐるものは残らず大地《だいち》の上《うへ》に落ち付《つ》いた様に見えた。代助は久《ひさ》し振《ぶ》りで吾《われ》に返《かへ》つた心持がした。
「好《い》い雨《あめ》ですね」と云つた。
「些《ちつ》とも好《よ》かないわ、私《わたし》、草履《ざうり》を穿《は》いて来《き》たんですもの」
三千代は寧ろ恨《うら》めしさうに樋から洩《も》る雨点《あまだれ》を眺《なが》めた。
「帰《かへ》りには車《くるま》を云ひ付《つ》けて上《あ》げるから可《い》いでせう。緩《ゆつく》りなさい」
三千代はあまり緩《ゆつく》り出来《でき》さうな様子も見えなかつた。まともに、代助の方を見て、
「貴方《あなた》も相変らず呑気《のんき》な事を仰《おつ》しやるのね」と窘《たしな》めた。けれども其|眼元《めもと》には笑《わらひ》の影《かげ》が泛《うか》んでゐた。
今迄三千代の陰《かげ》に隠《かく》れてぼんやりしてゐた平岡の顔《かほ》が、此時|明《あき》らかに代助の心《こゝろ》の瞳《ひとみ》に映《うつ》つた。代助は急に薄暗《うすくら》がりから物《もの》に襲はれた様な気がした。三千代は矢張り、離《はな》れ難《がた》い黒い影《かげ》を引き摺《ず》つて歩《ある》いてゐる女であつた。
「平岡君は何《ど》うしました」とわざと何気《なにげ》なく聞《き》いた。すると三千代の口元《くちもと》が心持《こゝろもち》締《しま》つて見えた。
「相変らずですわ」
「まだ何《なん》に
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