して見ると、平岡の事情は、依然として発展してゐなかつた。もう近頃は運動しても当分駄目だから、毎日|斯《か》うして遊《あそ》んで歩《ある》く。それでなければ、宅《うち》に寐《ね》てゐるんだと云つて、大きな声を出《だ》して笑つて見せた。代助もそれが可《よ》からうと答へたなり、後《あと》は当《あた》らず障らずの世間話《せけんばなし》に時間《じかん》を潰《つぶ》してゐた。けれども自然に出《で》る世間|話《ばなし》といふよりも、寧ろある問題を回避する為《ため》の世間話《せけんばなし》だから、両方共に緊張《きんちよう》を腹《はら》の底《そこ》に感《かん》じてゐた。
平岡は三千代の事も、金《かね》の事も口《くち》へ出《だ》さなかつた。従《した》がつて三日前《みつかまへ》代助が彼《かれ》の留守宅を訪問した事に就ても何も語《かた》らなかつた。代助も始めのうちは、わざと、その点に触《ふ》れないで澄《すま》してゐたが、何時《いつ》迄|経《た》つても、平岡の方で余所《よそ》々々しく構へてゐるので、却つて不安になつた。
「実は二三日|前《まへ》君の所《ところ》へ行つたが、君は留守だつたね」と云ひ出した。
「うん。左様《さう》だつたさうだね。其節は又難有う。御|蔭《かげ》さまで。――なに、君を煩はさないでも何《ど》うかなつたんだが、彼奴《あいつ》があまり心配し過《すぎ》て、つい君に迷惑を掛けて済《す》まない」と冷淡な礼を云つた。それから、
「僕も実は御礼に来《き》た様《やう》なものだが、本当の御礼には、いづれ当人が出《で》るだらうから」と丸で三千代と自分を別物《べつもの》にした言分《いひぶん》であつた。代助はたゞ、
「そんな面倒な事をする必要があるものか」と答へた。話《はなし》は是で切れた。が又両方に共通で、しかも、両方のあまり興味を持《も》たない方面に摺《ず》り滑《すべ》つて行《い》つた。すると、平岡が突然、
「僕はことによると、もう実業は已《や》めるかも知れない。実際|内幕《うちまく》を知れば知る程|厭《いや》になる。其上|此方《こつち》へ来《き》て、少し運動をして見て、つくづく勇気がなくなつた」と心底《しんそこ》かららしい告白をした。代助は、一口《ひとくち》、
「それは、左様《さう》だらう」と答へた。平岡はあまり此返事の冷淡なのに驚ろいた様子であつた。が、又あとを付《つ》けた。
「先達ても一寸《ちよつと》話《はな》したんだが、新聞へでも這入らうかと思つてる」
「口《くち》があるのかい」と代助が聞《き》き返した。
「今《いま》、一《ひと》つある。多分|出来《でき》さうだ」
来《き》た時は、運動しても駄目だから遊んでゐると云ふし、今は新聞に口《くち》があるから出様と云ふし、少し要領を欠《か》いでゐるが、追窮するのも面倒だと思つて、代助は、
「それも面白からう」と賛成の意を表して置いた。
八の六
平岡の帰りを玄関迄見送つた時、代助はしばらく、障子に身《み》を寄せて、敷居《しきゐ》の上《うへ》に立つてゐた。門野《かどの》も御|附合《つきあひ》に平岡の後姿《うしろすがた》を眺《なが》めてゐた。が、すぐ口《くち》を出《だ》した。
「平岡さんは思つたよりハイカラですな。あの服装《なり》ぢや、少《すこ》し宅《うち》の方が御粗末|過《すぎ》る様です」
「左様《さう》でもないさ。近頃はみんな、あんなものだらう」と代助は立ちながら答へた。
「全《まつ》たく、服装《なり》丈ぢや分《わか》らない世の中《なか》になりましたからね。何処《どこ》の紳士かと思ふと、どうも変《へん》ちきりんな家《うち》へ這入《はいつ》てますからね」と門野《かどの》はすぐあとを付けた。
代助は返事も為《し》ずに書斎へ引き返した。椽側に垂《た》れた君子|蘭《らん》の緑《みどり》の滴《したゝり》がどろ/\になつて、干上《ひあが》り掛《かゝ》つてゐた。代助はわざと、書斎と座敷《ざしき》の仕切《しきり》を立《た》て切《き》つて、一人《ひとり》室《へや》のうちへ這入《はい》つた。来客に接《せつ》した後《あと》しばらくは、独坐《どくざ》に耽《ふけ》るが代助の癖《くせ》であつた。ことに今日《けふ》の様に調子の狂ふ時は、格別その必要を感じた。
平岡はとう/\自分と離れて仕舞つた。逢《あ》ふたんびに、遠くにゐて応対する様な気がする。実を云ふと、平岡ばかりではない。誰《だれ》に逢つても左《そ》んな気がする。現代の社会は孤立した人間の集合体に過《すぎ》なかつた。大地《だいち》は自然に続《つゞ》いてゐるけれども、其上に家《いへ》を建《た》てたら、忽ち切《き》れ|/\《ぎれ》になつて仕舞つた。家《いへ》の中《なか》にゐる人間《にんげん》も亦|切《き》れ切《ぎ》れになつて仕舞つた。文明は我等をして孤立
前へ
次へ
全123ページ中47ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング