》と解釈して、却つて不愉快な感に打たれたかも知れないのである
 代助は晩食《ばんめし》も食《く》はずに、すぐ又|表《おもて》へ出た。五軒町から江戸川の縁《へり》を伝《つた》つて、河《かは》を向《むかふ》へ越した時は、先刻《さつき》散歩からの帰りの様に精神の困憊を感じてゐなかつた。坂を上《のぼ》つて伝通院の横へ出《で》ると、細く高い烟突が、寺《てら》と寺《てら》の間《あひだ》から、汚《きた》ない烟《けむ》を、雲《くも》の多い空《そら》に吐《は》いてゐた。代助はそれを見《み》て、貧弱な工業が、生存の為《ため》に無理に吐《つ》く呼吸《いき》を見苦《みぐる》しいものと思つた。さうして其|近《ちか》くに住《す》む平岡と、此烟突とを暗々《あん/\》の裏《うち》に連想せずにはゐられなかつた。斯《か》う云ふ場合には、同情の念より美醜の念が先《さき》に立つのが、代助の常《つね》であつた。代助は此瞬間に、三千代の事を殆んど忘れて仕舞つた位、空《そら》に散《ち》る憐れな石炭の烟《けむり》に刺激された。
 平岡《ひらをか》の玄関の沓脱《くつぬぎ》には女の穿《は》く重《かさ》ね草履が脱《ぬ》ぎ棄てゝあつた。格子を開《あ》けると、奥の方から三千代が裾《すそ》を鳴《な》らして出《で》て来《き》た。其時|上《あが》り口《ぐち》の二畳《にじやう》は殆《ほと》んど暗《くら》かつた。三千代《みちよ》は其|暗《くら》い中《なか》に坐《すは》つて挨拶をした。始めは誰《だれ》が来《き》たのか、よく分《わか》らなかつたらしかつたが、代助の声《こえ》を聞《き》くや否や、何方《どなた》かと思つたら……と寧ろ低い声で云つた。代助は判然《はつきり》見えない三千代の姿を、常よりは美《うつく》しく眺めた。

       八の四

 平岡《ひらをか》は不在《ふざい》であつた。それを聞《き》いた時、代助は話《はな》してゐ易《やす》い様な、又|話《はな》してゐ悪《にく》い様な変な気がした。けれども三千代の方は常《つね》の通り落ち付《つ》いてゐた。洋燈《ランプ》も点《つ》けないで、暗《くら》い室《へや》を閉《た》て切つた儘|二人《ふたり》で坐《すは》つてゐた。三千代は下女も留守だと云つた。自分も先刻《さつき》其所《そこ》迄用|達《たし》に出《で》て、今帰つて夕食《ゆふめし》を済ました許りだと云つた。やがて平岡の話が出《で》た。
 予期した通り、平岡は相変らず奔走してゐる。が、此一週間程は、あんまり外《そと》へ出《で》なくなつた。疲《つか》れたと云つて、よく宅《うち》に寐《ね》てゐる。でなければ酒《さけ》を飲《の》む。人《ひと》が尋《たづ》ねて来《く》れば猶|飲《の》む。さうして善《よ》く怒《おこ》る。さかんに人《ひと》を罵倒する。のださうである。
「昔《むかし》と違《ちが》つて気が荒《あら》くなつて困《こま》るわ」と云つて、三千代《みちよ》は暗に同情を求める様子であつた。代助は黙《だま》つてゐた。下女が帰《かへ》つて来《き》て、勝手|口《ぐち》でがた/\音《おと》をさせた。しばらくすると、胡摩竹《ごまだけ》の台《だい》の着《つ》いた洋燈《ランプ》を持つて出《で》た。襖《ふすま》を締《し》める時《とき》、代助の顔《かほ》を偸《ぬす》む様に見て行つた。
 代助は懐《ふところ》から例の小|切手《ぎつて》を出《だ》した。二つに折《を》れたのを其儘三千代の前に置いて、奥さん、と呼び掛《か》けた。代助が三千代を奥さんと呼んだのは始めてゞあつた。
「先達《せんだつ》て御頼《おたのみ》の金《かね》ですがね」
 三千代は何にも答へなかつた。たゞ眼《め》を挙《あ》げて代助を見た。
「実《じつ》は、直《すぐ》にもと思つたんだけれども、此方《こつち》の都合が付《つ》かなかつたものだから、遂《つい》遅《おそ》くなつたんだが、何《ど》うですか、もう始末は付《つ》きましたか」と聞いた。
 其時三千代は急に心細さうな低《ひく》い声になつた。さうして怨《えん》ずる様に、
「未《まだ》ですわ。だつて、片付《かたづ》く訳が無《な》いぢやありませんか」と云つた儘、眼《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて凝《じつ》と代助を見てゐた。代助は折《を》れた小切手を取り上《あ》げて二つに開《ひら》いた。
「是丈ぢや駄目《だめ》ですか」
 三千代は手を伸《の》ばして小切手を受取《うけと》つた。
「難有う。平岡が喜びますわ」と静《しづ》かに小切手を畳《たゝみ》の上《うへ》に置《お》いた。
 代助は金《かね》を借りて来《き》た由来を、極ざつと説明して、自分は斯《か》ういふ呑気な身分の様に見えるけれども、何か必要があつて、自分以外の事に、手を出《だ》さうとすると、丸で無能力になるんだから、そこは悪《わる》く思つて呉れない様
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