た。
誠太郎の云ふ所によると、昨夕《ゆふべ》兄《あに》が宅《うち》へ帰つてから、父《ちゝ》と嫂《あによめ》と三人して、代助の合評をしたらしい。小供のいふ事だから、能く分《わか》らないが、比較的|頭《あたま》が可《い》いので、能く断片的に其時の言葉を覚えてゐる。父《ちゝ》は代助を、どうも見込がなささうだと評したのださうだ。兄《あに》は之に対して、あゝ遣《や》つてゐても、あれで中々|解《わか》つた所がある。当分|放《ほう》つて置《お》くが可《い》い。放《ほう》つて置《お》いても大丈夫だ、間違はない。いづれ其内に何か遣《や》るだらうと弁護したのださうだ。すると嫂《あによめ》がそれに賛成して、一週間許り前|占者《うらなひしや》に見てもらつたら、此人《このひと》は屹度人の上《かみ》に立つに違ないと判断したから大丈夫だと主張したのださうだ。
代助はうん、それから、と云つて、始終面白さうに聞いて居たが、占者《うらなひしや》の所《ところ》へ来《き》たら、本当に可笑しくなつた。やがて着物《きもの》を着換《きかへ》て、誠太郎を送りながら表へ出て、自分は平岡の家《いへ》を訪《たづ》ねた。
六の四
平岡《ひらをか》の家《いへ》は、此十数年来の物価騰|貴《き》に伴《つ》れて、中流社会が次第々々に切《き》り詰《つ》められて行《ゆ》く有様を、住宅《じうたく》の上《うへ》に善《よ》く代表してゐる、尤も粗悪な見苦《みぐる》しき構《かま》へである。とくに代助には左様《さう》見えた。
門《もん》と玄関の間《あひだ》が一間《いつけん》位しかない。勝手口《かつてぐち》も其通りである。さうして裏にも、横《よこ》にも同じ様な窮屈な家《いへ》が建《た》てられてゐる。東京市の貧弱なる膨脹に付《つ》け込《こ》んで、最低度の資本家が、なけなしの元手《もとで》を二割乃至三割の高利《こうり》に廻《まは》さうと目論《もくろん》で、あたぢけなく拵《こしら》へ上《あ》げた、生存競争の記念《かたみ》である。
今日《こんにち》の東京市、ことに場末《ばすえ》の東京市には、至る所に此種《このしゆ》の家《いへ》が散点してゐる、のみならず、梅雨《つゆ》に入《い》つた蚤《のみ》の如く、日毎に、格外の増加律を以て殖えつゝある。代助はかつて、是を敗亡の発展《はつてん》と名《な》づけた。さうして、之を目下の日本を代表する最好の象徴《シンボル》とした。
彼等のあるものは、石油缶《せきゆくわん》の底《そこ》を継《つ》ぎ合《あ》はせた四角な鱗《うろこ》で蔽はれてゐる。彼等の一つを借りて、夜中《よなか》に柱《はしら》の割れる音《おと》で眼《め》を醒《さ》まさないものは一人《ひとり》もない。彼等の戸には必ず節穴《ふしあな》がある。彼等の襖《ふすま》は必ず狂《くる》ひが出ると極つてゐる。資本を頭《あたま》の中《なか》へ注《つ》ぎ込《こ》んで、月々《つき/″\》其|頭《あたま》から利息を取つて生活しやうと云ふ人間《にんげん》は、みんな斯《か》ういふ所を借《か》りて立《た》て籠《こも》つてゐる。平岡も其|一人《いちにん》である。
代助は垣根《かきね》の前《まへ》を通るとき、先づ其|屋根《やね》に眼《め》が付《つ》いた。さうして、どす黒《ぐろ》い瓦の色が妙に彼《かれ》の心を刺激した。代助には此|光《ひかり》のない土《つち》の板《いた》が、いくらでも水《みづ》を吸《す》ひ込《こ》む様に思はれた。玄関前に、此間《このあひだ》引越のときに解《ほど》いた菰包《こもづゝみ》の藁屑《わらくづ》がまだ零《こぼ》れてゐた。座敷《ざしき》へ通《とほ》ると、平岡は机の前《まへ》へ坐《すは》つて、長《なが》い手紙《てがみ》を書《か》き掛《か》けてゐる所であつた。三千代《みちよ》は次《つぎ》の部屋《へや》で簟笥の環《くわん》をかたかた鳴らしてゐた。傍《そば》に大《おほ》きな行李《こり》が開《あ》けてあつて、中《なか》から奇麗《きれい》な長繻絆《ながじゆばん》の袖《そで》が半分《はんぶん》出《で》かかつてゐた。
平岡が、失敬だが鳥渡《ちよつと》待《ま》つて呉れと云つた間《あひだ》に、代助は行李《こり》と長繻絆《ながじゆばん》と、時々《とき/″\》行李《こり》の中《なか》へ落《お》ちる繊《ほそ》い手とを見てゐた。襖《ふすま》は明《あ》けた儘|閉《た》て切《き》る様子もなかつた。が三千代の顔は陰《かげ》になつて見えなかつた。
やがて、平岡は筆《ふで》を机《つくえ》の上へ抛《な》げ付ける様にして、座《ざ》を直《なほ》した。何《なん》だか込み入つた事を懸命に書いてゐたと見えて、耳を赤《あか》くしてゐた。眼《め》も赤くしてゐた。
「何《ど》うだい。此間《このあひだ》は色々《いろ/\》難有う。其|後《ご》一寸《ちよつと》礼《れい
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