て、ようやく外套《がいとう》の下に体《たい》の温味《あたたかみ》を感じ出したぐらいです。
 急いだためでもありましょうが、我々は帰り路《みち》にはほとんど口を聞きませんでした。宅《うち》へ帰って食卓に向った時、奥さんはどうして遅くなったのかと尋ねました。私はKに誘われて上野《うえの》へ行ったと答えました。奥さんはこの寒いのにといって驚いた様子を見せました。お嬢さんは上野に何があったのかと聞きたがります。私は何もないが、ただ散歩したのだという返事だけしておきました。平生《へいぜい》から無口なKは、いつもよりなお黙っていました。奥さんが話しかけても、お嬢さんが笑っても、碌《ろく》な挨拶《あいさつ》はしませんでした。それから飯《めし》を呑《の》み込むように掻《か》き込んで、私がまだ席を立たないうちに、自分の室《へや》へ引き取りました。

     四十三

「その頃《ころ》は覚醒《かくせい》とか新しい生活とかいう文字《もんじ》のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、一意《いちい》に新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出す事のできないほど尊《たっと》い過去があったからです。彼はそのために今日《こんにち》まで生きて来たといってもいいくらいなのです。だからKが一直線に愛の目的物に向って猛進しないといって、決してその愛の生温《なまぬる》い事を証拠立てる訳にはゆきません。いくら熾烈《しれつ》な感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの衝動が起る機会を彼に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏み留《とど》まって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。そうすると過去が指し示す路《みち》を今まで通り歩かなければならなくなるのです。その上彼には現代人のもたない強情《ごうじょう》と我慢がありました。私はこの双方の点においてよく彼の心を見抜いていたつもりなのです。
 上野《うえの》から帰った晩は、私に取って比較的安静な夜《よ》でした。私はKが室《へや》へ引き上げたあとを追い懸けて、彼の机の傍《そば》に坐《すわ》り込みました。そうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑そうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いていたでしょう、私の声にはたしかに得意の響きがあったのです。私はしばらくKと一つ火鉢に手を翳《かざ》した後《あと》、自分の室に帰りました。外《ほか》の事にかけては何をしても彼に及ばなかった私も、その時だけは恐るるに足りないという自覚を彼に対してもっていたのです。
 私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間の襖《ふすま》が二|尺《しゃく》ばかり開《あ》いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の室には宵《よい》の通りまだ燈火《あかり》が点《つ》いているのです。急に世界の変った私は、少しの間《あいだ》口を利《き》く事もできずに、ぼうっとして、その光景を眺《なが》めていました。
 その時Kはもう寝たのかと聞きました。Kはいつでも遅くまで起きている男でした。私は黒い影法師《かげぼうし》のようなKに向って、何か用かと聞き返しました。Kは大した用でもない、ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだと答えました。Kは洋燈《ランプ》の灯《ひ》を背中に受けているので、彼の顔色や眼つきは、全く私には分りませんでした。けれども彼の声は不断よりもかえって落ち付いていたくらいでした。
 Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。私の室はすぐ元の暗闇《くらやみ》に帰りました。私はその暗闇より静かな夢を見るべくまた眼を閉じました。私はそれぎり何も知りません。しかし翌朝《よくあさ》になって、昨夕《ゆうべ》の事を考えてみると、何だか不思議でした。私はことによると、すべてが夢ではないかと思いました。それで飯《めし》を食う時、Kに聞きました。Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだといいます。なぜそんな事をしたのかと尋ねると、別に判然《はっきり》した返事もしません。調子の抜けた頃になって、近頃は熟睡ができるのかとかえって向うから私に問うのです。私は何だか変に感じました。
 その日ちょうど同じ時間に講義の始まる時間割になっていたので、二人はやがていっしょに宅《うち》を出ました。今朝《けさ》から昨夕の事が気に掛《かか》っている私は、途中でまたKを追窮《ついきゅう》しました。けれどもKはやはり私を満足させるような答えをしません。私はあの事件について何か話すつもりではなかったのかと念を押してみました。Kはそうではないと強い調子でいい切りました。昨日《きのう》上野で「その話はもう止《や》めよう」といったではないかと注意するごとくにも聞こえました。Kはそういう点に掛けて鋭い自尊心をもった男なのです。ふとそこに気のついた私は突然彼の用いた「覚悟」という言葉を連想し出しました。すると今までまるで気にならなかったその二字が妙な力で私の頭を抑《おさ》え始めたのです。

     四十四

「Kの果断に富んだ性格は私《わたくし》によく知れていました。彼のこの事件についてのみ優柔《ゆうじゅう》な訳も私にはちゃんと呑《の》み込めていたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしっかり攫《つら》まえたつもりで得意だったのです。ところが「覚悟」という彼の言葉を、頭のなかで何遍《なんべん》も咀嚼《そしゃく》しているうちに、私の得意はだんだん色を失って、しまいにはぐらぐら揺《うご》き始めるようになりました。私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。すべての疑惑、煩悶《はんもん》、懊悩《おうのう》、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに畳《たた》み込んでいるのではなかろうかと疑《うたぐ》り始めたのです。そうした新しい光で覚悟の二字を眺《なが》め返してみた私は、はっと驚きました。その時の私がもしこの驚きをもって、もう一返《いっぺん》彼の口にした覚悟の内容を公平に見廻《みまわ》したらば、まだよかったかも知れません。悲しい事に私は片眼《めっかち》でした。私はただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうと一図《いちず》に思い込んでしまったのです。
 私は私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。私はすぐその声に応じて勇気を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間《ま》に、事を運ばなくてはならないと覚悟を極《き》めました。私は黙って機会を覘《ねら》っていました。しかし二日|経《た》っても三日経っても、私はそれを捕《つら》まえる事ができません。私はKのいない時、またお嬢さんの留守な折を待って、奥さんに談判を開こうと考えたのです。しかし片方がいなければ、片方が邪魔をするといった風《ふう》の日ばかり続いて、どうしても「今だ」と思う好都合が出て来てくれないのです。私はいらいらしました。
 一週間の後《のち》私はとうとう堪え切れなくなって仮病《けびょう》を遣《つか》いました。奥さんからもお嬢さんからも、K自身からも、起きろという催促を受けた私は、生返事《なまへんじ》をしただけで、十時|頃《ごろ》まで蒲団《ふとん》を被《かぶ》って寝ていました。私はKもお嬢さんもいなくなって、家の内《なか》がひっそり静まった頃を見計《みはか》らって寝床を出ました。私の顔を見た奥さんは、すぐどこが悪いかと尋ねました。食物《たべもの》は枕元《まくらもと》へ運んでやるから、もっと寝ていたらよかろうと忠告してもくれました。身体《からだ》に異状のない私は、とても寝る気にはなれません。顔を洗っていつもの通り茶の間で飯《めし》を食いました。その時奥さんは長火鉢《ながひばち》の向側《むこうがわ》から給仕をしてくれたのです。私は朝飯《あさめし》とも午飯《ひるめし》とも片付かない茶椀《ちゃわん》を手に持ったまま、どんな風に問題を切り出したものだろうかと、そればかりに屈托《くったく》していたから、外観からは実際気分の好《よ》くない病人らしく見えただろうと思います。
 私は飯を終《しま》って烟草《タバコ》を吹かし出しました。私が立たないので奥さんも火鉢の傍《そば》を離れる訳にゆきません。下女《げじょ》を呼んで膳《ぜん》を下げさせた上、鉄瓶《てつびん》に水を注《さ》したり、火鉢の縁《ふち》を拭《ふ》いたりして、私に調子を合わせています。私は奥さんに特別な用事でもあるのかと問いました。奥さんはいいえと答えましたが、今度は向うでなぜですと聞き返して来ました。私は実は少し話したい事があるのだといいました。奥さんは何ですかといって、私の顔を見ました。奥さんの調子はまるで私の気分にはいり込めないような軽いものでしたから、私は次に出すべき文句も少し渋りました。
 私は仕方なしに言葉の上で、好《い》い加減にうろつき廻《まわ》った末、Kが近頃《ちかごろ》何かいいはしなかったかと奥さんに聞いてみました。奥さんは思いも寄らないという風をして、「何を?」とまた反問して来ました。そうして私の答える前に、「あなたには何かおっしゃったんですか」とかえって向うで聞くのです。

     四十五

「Kから聞かされた打ち明け話を、奥さんに伝える気のなかった私は、「いいえ」といってしまった後で、すぐ自分の嘘《うそ》を快《こころよ》からず感じました。仕方がないから、別段何も頼まれた覚えはないのだから、Kに関する用件ではないのだといい直しました。奥さんは「そうですか」といって、後《あと》を待っています。私はどうしても切り出さなければならなくなりました。私は突然「奥さん、お嬢さんを私に下さい」といいました。奥さんは私の予期してかかったほど驚いた様子も見せませんでしたが、それでも少時《しばらく》返事ができなかったものと見えて、黙って私の顔を眺《なが》めていました。一度いい出した私は、いくら顔を見られても、それに頓着《とんじゃく》などはしていられません。「下さい、ぜひ下さい」といいました。「私の妻としてぜひ下さい」といいました。奥さんは年を取っているだけに、私よりもずっと落ち付いていました。「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか」と聞くのです。私が「急に貰《もら》いたいのだ」とすぐ答えたら笑い出しました。そうして「よく考えたのですか」と念を押すのです。私はいい出したのは突然でも、考えたのは突然でないという訳を強い言葉で説明しました。
 それからまだ二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れてしまいました。男のように判然《はきはき》したところのある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持よく話のできる人でした。「宜《よ》ござんす、差し上げましょう」といいました。「差し上げるなんて威張《いば》った口の利《き》ける境遇ではありません。どうぞ貰って下さい。ご存じの通り父親のない憐《あわ》れな子です」と後《あと》では向うから頼みました。
 話は簡単でかつ明瞭《めいりょう》に片付いてしまいました。最初からしまいまでにおそらく十五分とは掛《かか》らなかったでしょう。奥さんは何の条件も持ち出さなかったのです。親類に相談する必要もない、後から断ればそれで沢山だといいました。本人の意嚮《いこう》さえたしかめるに及ばないと明言しました。そんな点になると、学問をした私の方が、かえって形式に拘泥《こうでい》するくらいに思われたのです。親類はとにかく、当人にはあらかじめ話して承諾を得《う》るのが順序らしいと私が注意した時、奥さんは「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやるはずがありませんから」といいました。
 自分の室《へや》へ帰った私は、事のあまりに訳もなく進行したのを考えて、かえって変な気持になりました。はたして大丈夫なのだろうかという
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