だけを想像に描《えが》き得たに過ぎなかった。先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見惨《みじめ》なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。
 私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、先刻《さっき》いった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
 ただ一つ私の記憶に残っている事がある。或《あ》る時|花時分《はなじぶん》に私は先生といっしょに上野《うえの》へ行った。そうしてそこで美しい一対《いっつい》の男女《なんにょ》を見た。彼らは睦《むつ》まじそうに寄り添って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を峙《そば》だてている人が沢山あった。
「新婚の夫婦のようだね」と先生がいった。
「仲が好《よ》さそうですね」と私が答えた。
 先生は苦笑
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