滅多《めった》に起る現象でなかった事も、その後絶えず出入《でい》りをして来た私にはほぼ推察ができた。それどころか先生はある時こんな感想すら私に洩《も》らした。
「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻《さい》以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対《いっつい》であるべきはずです」
 私は今前後の行《ゆ》き掛《がか》りを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせたのか、判然《はっきり》いう事ができない。けれども先生の態度の真面目《まじめ》であったのと、調子の沈んでいたのとは、いまだに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あるべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。ことにそこへ一種の力を入れた先生の語気が不審であった。先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら
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