いい出した。「実は私も少し変なのですよ。君に分りますか」
 私は何の答えもし得なかった。
「実は先刻《さっき》妻《さい》と少し喧嘩《けんか》をしてね。それで下《くだ》らない神経を昂奮《こうふん》させてしまったんです」と先生がまたいった。
「どうして……」
 私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」
「どんなに先生を誤解なさるんですか」
 先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
 先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。

     十

 二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一|丁《ちょう》も二丁もつづいた。その後《あと》で突然先生が口を利《き》き出した。
「悪い事をした。怒って出たから妻《さい》はさぞ心配をしているだろう。考えると女は可哀《かわい》そうなものですね。私《わたくし》の妻などは私より外《ほか》にまるで頼りにするものがないんだから」
 先生の言葉はちょっとそこで途切《とぎ》れ
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