》に入《い》ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。
今いった通り先生は始終静かであった。落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。窓に黒い鳥影が射《さ》すように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。私が始めてその曇りを先生の眉間《みけん》に認めたのは、雑司ヶ谷《ぞうしがや》の墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であった。私はその異様の瞬間に、今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。しかしそれは単に一時の結滞《けったい》に過ぎなかった。私の心は五分と経《た》たないうちに平素の弾力を回復した。私はそれぎり暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、小春《こはる》の尽きるに間《ま》のない或《あ》る晩の事であった。
先生と話していた私は、ふと先生がわざわざ注意してくれた銀杏《いちょう》の大樹《たいじゅ》を眼《め》の前に想《おも》い浮かべた。勘定してみると、先生が毎月例《まいげつれい》として墓参に行く日が、それからちょうど三日目に当っていた。その三日目は私の課業が午《ひる》で終《お
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