、急に底の見えない谷を覗《のぞ》き込んだ人のように。私は卑怯《ひきょう》でした。そうして多くの卑怯な人と同じ程度において煩悶《はんもん》したのです。遺憾《いかん》ながら、その時の私には、あなたというものがほとんど存在していなかったといっても誇張ではありません。一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの糊口《ここう》の資《し》、そんなものは私にとってまるで無意味なのでした。どうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです。私は状差《じょうさし》へあなたの手紙を差したなり、依然として腕組をして考え込んでいました。宅《うち》に相応の財産があるものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位地位といって藻掻《もが》き廻《まわ》るのか。私はむしろ苦々《にがにが》しい気分で、遠くにいるあなたにこんな一瞥《いちべつ》を与えただけでした。私は返事を上げなければ済まないあなたに対して、言訳《いいわけ》のためにこんな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾《ぶしつけ》な言葉を弄《ろう》するのではありません。私の本意は後《あと》をご覧になればよく解《わか》る事と信じます。とにかく私
前へ
次へ
全371ページ中175ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング