上に親子の心残りがあるだけであった。先生の多くはまだ私に解《わか》っていなかった。話すと約束されたその人の過去もまだ聞く機会を得ずにいた。要するに先生は私にとって薄暗かった。私はぜひともそこを通り越して、明るい所まで行かなければ気が済まなかった。先生と関係の絶えるのは私にとって大いな苦痛であった。私は母に日を見てもらって、東京へ立つ日取りを極《き》めた。
九
私《わたくし》がいよいよ立とうという間際になって、(たしか二日前の夕方の事であったと思うが、)父はまた突然|引《ひ》っ繰《く》り返《かえ》った。私はその時書物や衣類を詰めた行李《こうり》をからげていた。父は風呂《ふろ》へ入ったところであった。父の背中を流しに行った母が大きな声を出して私を呼んだ。私は裸体《はだか》のまま母に後ろから抱かれている父を見た。それでも座敷へ伴《つ》れて戻った時、父はもう大丈夫だといった。念のために枕元《まくらもと》に坐《すわ》って、濡手拭《ぬれてぬぐい》で父の頭を冷《ひや》していた私は、九時|頃《ごろ》になってようやく形《かた》ばかりの夜食を済ました。
翌日《よくじつ》になると父は思った
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