のね」
 先生は苦笑した。
「かぶれても構わないから、その代りこの間いった通り、お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分けてもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」
 私は先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あの躑躅《つつじ》の咲いている五月の初めを思い出した。あの時帰り途《みち》に、先生が昂奮《こうふん》した語気で、私に物語った強い言葉を、再び耳の底で繰り返した。それは強いばかりでなく、むしろ凄《すご》い言葉であった。けれども事実を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあった。
「奥さん、お宅《たく》の財産はよッぽどあるんですか」
「何だってそんな事をお聞きになるの」
「先生に聞いても教えて下さらないから」
 奥さんは笑いながら先生の顔を見た。
「教えて上げるほどないからでしょう」
「でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか、宅《うち》へ帰って一つ父に談判する時の参考にしますから聞かして下さい」
 先生は庭の方を向いて、澄まして烟草《タバコ》を吹かしていた。相手は自然奥さんでなければならなかった。
「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこう
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