った方が確《たし》かかも知れません。私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己《おの》れを尽《つく》したつもりです。
私は妻《さい》を残して行きます。私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合《しあわ》せです。私は妻に残酷な驚怖《きょうふ》を与える事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬつもりです。妻の知らない間《ま》に、こっそりこの世からいなくなるようにします。私は死んだ後で、妻から頓死《とんし》したと思われたいのです。気が狂ったと思われても満足なのです。
私が死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。始めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分を判然《はっきり》描《えが》き出す事ができたような心持がして嬉《うれ》しいのです。私は酔興《すいきょう》に書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外《ほか》に誰も語り得るものはないのですから、それを偽《いつわ》りなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。渡辺華山《わたなべかざん》は邯鄲《かんたん》という画《え》を描《か》くために、死期を一週間繰り延べたという話をつい先達《せんだっ》て聞きました。他《ひと》から見たら余計な事のようにも解釈できましょうが、当人にはまた当人相応の要求が心の中《うち》にあるのだからやむをえないともいわれるでしょう。私の努力も単にあなたに対する約束を果たすためばかりではありません。半《なか》ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。
しかし私は今その要求を果たしました。もう何にもする事はありません。この手紙があなたの手に落ちる頃《ころ》には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。妻は十日ばかり前から市ヶ谷《いちがや》の叔母《おば》の所へ行きました。叔母が病気で手が足りないというから私が勧めてやったのです。私は妻の留守の間《あいだ》に、この長いものの大部分を書きました。時々妻が帰って来ると、私はすぐそれを隠しました。
私は私の過去を善悪ともに他《ひと》の参考に供するつもりです。しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己《おの》れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一《ゆいいつ》の希望なのですから、私が死んだ後《あと》でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」
底本:「こころ」集英社文庫、集英社
1991(平成3)年2月25日第1刷
1995(平成7)年6月14日第10刷
初出:「朝日新聞」
1914(大正3)年4月20日〜8月11日
※誤植の修正は「漱石全集」岩波書店を参照しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:j.utiyama
校正:伊藤時也
1999年7月31日公開
2004年2月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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