段何も頼まれた覚えはないのだから、Kに関する用件ではないのだといい直しました。奥さんは「そうですか」といって、後《あと》を待っています。私はどうしても切り出さなければならなくなりました。私は突然「奥さん、お嬢さんを私に下さい」といいました。奥さんは私の予期してかかったほど驚いた様子も見せませんでしたが、それでも少時《しばらく》返事ができなかったものと見えて、黙って私の顔を眺《なが》めていました。一度いい出した私は、いくら顔を見られても、それに頓着《とんじゃく》などはしていられません。「下さい、ぜひ下さい」といいました。「私の妻としてぜひ下さい」といいました。奥さんは年を取っているだけに、私よりもずっと落ち付いていました。「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか」と聞くのです。私が「急に貰《もら》いたいのだ」とすぐ答えたら笑い出しました。そうして「よく考えたのですか」と念を押すのです。私はいい出したのは突然でも、考えたのは突然でないという訳を強い言葉で説明しました。
 それからまだ二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れてしまいました。男のように判然《はきはき》したところのある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持よく話のできる人でした。「宜《よ》ござんす、差し上げましょう」といいました。「差し上げるなんて威張《いば》った口の利《き》ける境遇ではありません。どうぞ貰って下さい。ご存じの通り父親のない憐《あわ》れな子です」と後《あと》では向うから頼みました。
 話は簡単でかつ明瞭《めいりょう》に片付いてしまいました。最初からしまいまでにおそらく十五分とは掛《かか》らなかったでしょう。奥さんは何の条件も持ち出さなかったのです。親類に相談する必要もない、後から断ればそれで沢山だといいました。本人の意嚮《いこう》さえたしかめるに及ばないと明言しました。そんな点になると、学問をした私の方が、かえって形式に拘泥《こうでい》するくらいに思われたのです。親類はとにかく、当人にはあらかじめ話して承諾を得《う》るのが順序らしいと私が注意した時、奥さんは「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやるはずがありませんから」といいました。
 自分の室《へや》へ帰った私は、事のあまりに訳もなく進行したのを考えて、かえって変な気持になりました。はたして大丈夫なのだろうかという疑念さえ、どこからか頭の底に這《は》い込んで来たくらいです。けれども大体の上において、私の未来の運命は、これで定められたのだという観念が私のすべてを新たにしました。
 私は午頃《ひるごろ》また茶の間へ出掛けて行って、奥さんに、今朝《けさ》の話をお嬢さんに何時《いつ》通じてくれるつもりかと尋ねました。奥さんは、自分さえ承知していれば、いつ話しても構わなかろうというような事をいうのです。こうなると何だか私よりも相手の方が男みたようなので、私はそれぎり引き込もうとしました。すると奥さんが私を引き留めて、もし早い方が希望ならば、今日でもいい、稽古《けいこ》から帰って来たら、すぐ話そうというのです。私はそうしてもらう方が都合が好《い》いと答えてまた自分の室に帰りました。しかし黙って自分の机の前に坐《すわ》って、二人のこそこそ話を遠くから聞いている私を想像してみると、何だか落ち付いていられないような気もするのです。私はとうとう帽子を被《かぶ》って表へ出ました。そうしてまた坂の下でお嬢さんに行き合いました。何にも知らないお嬢さんは私を見て驚いたらしかったのです。私が帽子を脱《と》って「今お帰り」と尋ねると、向うではもう病気は癒《なお》ったのかと不思議そうに聞くのです。私は「ええ癒りました、癒りました」と答えて、ずんずん水道橋《すいどうばし》の方へ曲ってしまいました。

     四十六

「私は猿楽町《さるがくちょう》から神保町《じんぼうちょう》の通りへ出て、小川町《おがわまち》の方へ曲りました。私がこの界隈《かいわい》を歩くのは、いつも古本屋をひやかすのが目的でしたが、その日は手摺《てず》れのした書物などを眺《なが》める気が、どうしても起らないのです。私は歩きながら絶えず宅《うち》の事を考えていました。私には先刻《さっき》の奥さんの記憶がありました。それからお嬢さんが宅へ帰ってからの想像がありました。私はつまりこの二つのもので歩かせられていたようなものです。その上私は時々往来の真中で我知らずふと立ち留まりました。そうして今頃は奥さんがお嬢さんにもうあの話をしている時分だろうなどと考えました。また或《あ》る時は、もうあの話が済んだ頃だとも思いました。
 私はとうとう万世橋《まんせいばし》を渡って、明神《みょうじん》の坂を上がって、本郷台《ほんごうだい》へ来て、それからまた菊坂《き
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