は決心していたのです。恥を掻《か》かせられるのが辛《つら》いなどというのとは少し訳が違います。こっちでいくら思っても、向うが内心|他《ほか》の人に愛の眼《まなこ》を注《そそ》いでいるならば、私はそんな女といっしょになるのは厭なのです。世の中では否応《いやおう》なしに自分の好いた女を嫁に貰《もら》って嬉《うれ》しがっている人もありますが、それは私たちよりよっぽど世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑《の》み込めない鈍物《どんぶつ》のする事と、当時の私は考えていたのです。一度貰ってしまえばどうかこうか落ち付くものだぐらいの哲理では、承知する事ができないくらい私は熱していました。つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時にもっとも迂遠《うえん》な愛の実際家だったのです。
肝心《かんじん》のお嬢さんに、直接この私というものを打ち明ける機会も、長くいっしょにいるうちには時々出て来たのですが、私はわざとそれを避けました。日本の習慣として、そういう事は許されていないのだという自覚が、その頃の私には強くありました。しかし決してそればかりが私を束縛したとはいえません。日本人、ことに日本の若い女は、そんな場合に、相手に気兼《きがね》なく自分の思った通りを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しいものと私は見込んでいたのです。
三十五
「こんな訳で私《わたくし》はどちらの方面へ向っても進む事ができずに立ち竦《すく》んでいました。身体《からだ》の悪い時に午睡《ひるね》などをすると、眼だけ覚《さ》めて周囲のものが判然《はっきり》見えるのに、どうしても手足の動かせない場合がありましょう。私は時としてああいう苦しみを人知れず感じたのです。
その内《うち》年が暮れて春になりました。ある日奥さんがKに歌留多《かるた》をやるから誰《だれ》か友達を連れて来ないかといった事があります。するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答えたので、奥さんは驚いてしまいました。なるほどKに友達というほどの友達は一人もなかったのです。往来で会った時|挨拶《あいさつ》をするくらいのものは多少ありましたが、それらだって決して歌留多《かるた》などを取る柄《がら》ではなかったのです。奥さんはそれじゃ私の知ったものでも呼んで来たらどうかといい直しましたが、私も生憎《あいにく》そんな陽気な遊びをする心持になれないので、好《い》い加減な生返事《なまへんじ》をしたなり、打ちやっておきました。ところが晩になってKと私はとうとうお嬢さんに引っ張り出されてしまいました。客も誰も来ないのに、内々《うちうち》の小人数《こにんず》だけで取ろうという歌留多ですからすこぶる静かなものでした。その上こういう遊技をやり付けないKは、まるで懐手《ふところで》をしている人と同様でした。私はKに一体|百人一首《ひゃくにんいっしゅ》の歌を知っているのかと尋ねました。Kはよく知らないと答えました。私の言葉を聞いたお嬢さんは、大方《おおかた》Kを軽蔑《けいべつ》するとでも取ったのでしょう。それから眼に立つようにKの加勢をし出しました。しまいには二人がほとんど組になって私に当るという有様になって来ました。私は相手次第では喧嘩《けんか》を始めたかも知れなかったのです。幸いにKの態度は少しも最初と変りませんでした。彼のどこにも得意らしい様子を認めなかった私は、無事にその場を切り上げる事ができました。
それから二、三日|経《た》った後《のち》の事でしたろう、奥さんとお嬢さんは朝から市ヶ谷にいる親類の所へ行くといって宅《うち》を出ました。Kも私もまだ学校の始まらない頃《ころ》でしたから、留守居同様あとに残っていました。私は書物を読むのも散歩に出るのも厭《いや》だったので、ただ漠然と火鉢の縁《ふち》に肱《ひじ》を載せて凝《じっ》と顋《あご》を支えたなり考えていました。隣《となり》の室《へや》にいるKも一向《いっこう》音を立てませんでした。双方ともいるのだかいないのだか分らないくらい静かでした。もっともこういう事は、二人の間柄として別に珍しくも何ともなかったのですから、私は別段それを気にも留めませんでした。
十時頃になって、Kは不意に仕切りの襖《ふすま》を開けて私と顔を見合《みあわ》せました。彼は敷居の上に立ったまま、私に何を考えていると聞きました。私はもとより何も考えていなかったのです。もし考えていたとすれば、いつもの通りお嬢さんが問題だったかも知れません。そのお嬢さんには無論奥さんも食っ付いていますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のように、私の頭の中をぐるぐる回《めぐ》って、この問題を複雑にしているのです。Kと顔を見合せた私は、今まで朧気《おぼろげ》に彼を一種の邪魔ものの如く意識していながら、明らかに
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