たと思いました。私は嬉《うれ》しかったのです。
私のすべてを聞いた奥さんは、はたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しました。それからは私を自分の親戚《みより》に当る若いものか何かを取り扱うように待遇するのです。私は腹も立ちませんでした。むしろ愉快に感じたくらいです。ところがそのうちに私の猜疑心《さいぎしん》がまた起って来ました。
私が奥さんを疑《うたぐ》り始めたのは、ごく些細《ささい》な事からでした。しかしその些細な事を重ねて行くうちに、疑惑は段々と根を張って来ます。私はどういう拍子かふと奥さんが、叔父《おじ》と同じような意味で、お嬢さんを私に接近させようと力《つと》めるのではないかと考え出したのです。すると今まで親切に見えた人が、急に狡猾《こうかつ》な策略家として私の眼に映じて来たのです。私は苦々《にがにが》しい唇を噛《か》みました。
奥さんは最初から、無人《ぶにん》で淋《さむ》しいから、客を置いて世話をするのだと公言していました。私もそれを嘘《うそ》とは思いませんでした。懇意になって色々打ち明け話を聞いた後《あと》でも、そこに間違《まちが》いはなかったように思われます。しかし一般の経済状態は大して豊《ゆた》かだというほどではありませんでした。利害問題から考えてみて、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取って決して損ではなかったのです。
私はまた警戒を加えました。けれども娘に対して前いったくらいの強い愛をもっている私が、その母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。私は一人で自分を嘲笑《ちょうしょう》しました。馬鹿だなといって、自分を罵《ののし》った事もあります。しかしそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も感ぜずに済んだのです。私の煩悶《はんもん》は、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。二人が私の背後で打ち合せをした上、万事をやっているのだろうと思うと、私は急に苦しくって堪《たま》らなくなるのです。不愉快なのではありません。絶体絶命のような行き詰まった心持になるのです。それでいて私は、一方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。だから私は信念と迷いの途中に立って、少しも動く事ができなくなってしまいました。私にはどっちも想像であり、またどっちも真実であったのです。
十六
「私は相変らず学校へ出席していました。しかし教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるような心持がしました。勉強もその通りでした。眼の中へはいる活字は心の底まで浸《し》み渡らないうちに烟《けむ》のごとく消えて行くのです。私はその上無口になりました。それを二、三の友達が誤解して、冥想《めいそう》に耽《ふけ》ってでもいるかのように、他《た》の友達に伝えました。私はこの誤解を解こうとはしませんでした。都合の好《い》い仮面を人が貸してくれたのを、かえって仕合《しあわ》せとして喜びました。それでも時々は気が済まなかったのでしょう、発作的に焦燥《はしゃ》ぎ廻《まわ》って彼らを驚かした事もあります。
私の宿は人出入《ひとでい》りの少ない家《うち》でした。親類も多くはないようでした。お嬢さんの学校友達がときたま遊びに来る事はありましたが、極《きわ》めて小さな声で、いるのだかいないのだか分らないような話をして帰ってしまうのが常でした。それが私に対する遠慮からだとは、いかな私にも気が付きませんでした。私の所へ訪ねて来るものは、大した乱暴者でもありませんでしたけれども、宅《うち》の人に気兼《きがね》をするほどな男は一人もなかったのですから。そんなところになると、下宿人の私は主人《あるじ》のようなもので、肝心《かんじん》のお嬢さんがかえって食客《いそうろう》の位地《いち》にいたと同じ事です。
しかしこれはただ思い出したついでに書いただけで、実はどうでも構わない点です。ただそこにどうでもよくない事が一つあったのです。茶の間か、さもなければお嬢さんの室《へや》で、突然男の声が聞こえるのです。その声がまた私の客と違って、すこぶる低いのです。だから何を話しているのかまるで分らないのです。そうして分らなければ分らないほど、私の神経に一種の昂奮《こうふん》を与えるのです。私は坐《すわ》っていて変にいらいらし出します。私はあれは親類なのだろうか、それともただの知り合いなのだろうかとまず考えて見るのです。それから若い男だろうか年輩の人だろうかと思案してみるのです。坐っていてそんな事の知れようはずがありません。そうかといって、起《た》って行って障子《しょうじ》を開けて見る訳にはなおいきません。私の神経は震えるというよりも、大きな波動を打って私を苦しめます。私は客の帰った後で、きっと忘れずにその人の
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