《わか》っていてくれさえすれば、……」
私は父からその後《あと》を聞こうとした。父は話したくなさそうであったが、とうとうこういった。
「つまり、おれが結構という事になるのさ。おれはお前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬お前に会った時、ことによるともう三月《みつき》か四月《よつき》ぐらいなものだろうと思っていたのさ。それがどういう仕合《しあわ》せか、今日までこうしている。起居《たちい》に不自由なくこうしている。そこへお前が卒業してくれた。だから嬉《うれ》しいのさ。せっかく丹精《たんせい》した息子が、自分のいなくなった後《あと》で卒業してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が親の身になれば嬉《うれ》しいだろうじゃないか。大きな考えをもっているお前から見たら、高《たか》が大学を卒業したぐらいで、結構だ結構だといわれるのは余り面白くもないだろう。しかしおれの方から見てご覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前に取ってより、このおれに取って結構なんだ。解ったかい」
私は一言《いちごん》もなかった。詫《あや》まる以上に恐縮して俯向《うつむ》いていた。父は平気なうちに自分の死を覚悟していたものとみえる。しかも私の卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたとみえる。その卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいた私は全く愚《おろ》かものであった。私は鞄《かばん》の中から卒業証書を取り出して、それを大事そうに父と母に見せた。証書は何かに圧《お》し潰《つぶ》されて、元の形を失っていた。父はそれを鄭寧《ていねい》に伸《の》した。
「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」
「中に心《しん》でも入れると好《よ》かったのに」と母も傍《かたわら》から注意した。
父はしばらくそれを眺《なが》めた後《あと》、起《た》って床《とこ》の間の所へ行って、誰《だれ》の目にもすぐはいるような正面へ証書を置いた。いつもの私ならすぐ何とかいうはずであったが、その時の私はまるで平生《へいぜい》と違っていた。父や母に対して少しも逆らう気が起らなかった。私はだまって父の為《な》すがままに任せておいた。一旦《いったん》癖のついた鳥《とり》の子紙《こがみ》の証書は、なかなか父の自由にならなかった。適当な位置に置かれるや否《いな》や、すぐ己《おの》れに自然な勢《いきお》いを得て倒れようとした。
二
私《わたくし》は母を蔭《かげ》へ呼んで父の病状を尋ねた。
「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか」
「もう何ともないようだよ。大方《おおかた》好くおなりなんだろう」
母は案外平気であった。都会から懸《か》け隔たった森や田の中に住んでいる女の常として、母はこういう事に掛けてはまるで無知識であった。それにしてもこの前父が卒倒した時には、あれほど驚いて、あんなに心配したものを、と私は心のうちで独り異《い》な感じを抱《いだ》いた。
「でも医者はあの時|到底《とても》むずかしいって宣告したじゃありませんか」
「だから人間の身体《からだ》ほど不思議なものはないと思うんだよ。あれほどお医者が手重《ておも》くいったものが、今までしゃんしゃんしているんだからね。お母さんも始めのうちは心配して、なるべく動かさないようにと思ってたんだがね。それ、あの気性だろう。養生はしなさるけれども、強情《ごうじょう》でねえ。自分が好《い》いと思い込んだら、なかなか私《わたし》のいう事なんか、聞きそうにもなさらないんだからね」
私はこの前帰った時、無理に床《とこ》を上げさして、髭《ひげ》を剃《そ》った父の様子と態度とを思い出した。「もう大丈夫、お母さんがあんまり仰山《ぎょうさん》過ぎるからいけないんだ」といったその時の言葉を考えてみると、満更《まんざら》母ばかり責める気にもなれなかった。「しかし傍《はた》でも少しは注意しなくっちゃ」といおうとした私は、とうとう遠慮して何にも口へ出さなかった。ただ父の病《やまい》の性質について、私の知る限りを教えるように話して聞かせた。しかしその大部分は先生と先生の奥さんから得た材料に過ぎなかった。母は別に感動した様子も見せなかった。ただ「へえ、やっぱり同《おんな》じ病気でね。お気の毒だね。いくつでお亡くなりかえ、その方《かた》は」などと聞いた。
私は仕方がないから、母をそのままにしておいて直接父に向かった。父は私の注意を母よりは真面目《まじめ》に聞いてくれた。「もっともだ。お前のいう通りだ。けれども、己《おれ》の身体《からだ》は必竟《ひっきょう》己の身体で、その己の身体についての養生法は、多年の経験上、己が一番|能《よ》く心得ているはずだからね」といった。それを聞いた母は苦笑した。「それご覧な」といった。
「でも、あ
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