「そんなにというほどでもありませんが、少し……」
「いや見えても構わない。実際|昂奮《こうふん》するんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」
 先生の言葉は元よりもなお昂奮していた。しかし私の驚いたのは、決してその調子ではなかった。むしろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものであった。先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私にも全くの意外に相違なかった。私は先生の性質の特色として、こんな執着力《しゅうじゃくりょく》をいまだかつて想像した事さえなかった。私は先生をもっと弱い人と信じていた。そうしてその弱くて高い処《ところ》に、私の懐かしみの根を置いていた。一時の気分で先生にちょっと盾《たて》を突いてみようとした私は、この言葉の前に小さくなった。先生はこういった。
「私は他《ひと》に欺《あざむ》かれたのです。しかも血のつづいた親戚《しんせき》のものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬや否《いな》や許しがたい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を小供《こども》の時から今日《きょう》まで背負《しょ》わされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないんだから。しかし私はまだ復讐《ふくしゅう》をしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にやっているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」
 私は慰藉《いしゃ》の言葉さえ口へ出せなかった。

     三十一

 その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。私《わたくし》はむしろ先生の態度に畏縮《いしゅく》して、先へ進む気が起らなかったのである。
 二人は市の外《はず》れから電車に乗ったが、車内ではほとんど口を聞かなかった。電車を降りると間もなく別れなければならなかった。別れる時の先生は、また変っていた。常よりは晴やかな調子で、「これから六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かも知れない。精出して遊びたまえ」といった。私は笑って帽子を脱《と》った
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