ったのに気が付いたと見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛《こしかけ》の下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。
次の日私は先生の後《あと》につづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。二|丁《ちょう》ほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広い蒼《あお》い海の表面に浮いているものは、その近所に私ら二人より外《ほか》になかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山とを照らしていた。私は自由と歓喜に充《み》ちた筋肉を動かして海の中で躍《おど》り狂った。先生はまたぱたりと手足の運動を已《や》めて仰向けになったまま浪《なみ》の上に寝た。私もその真似《まね》をした。青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」といって私を促した。比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。しかし先生から誘われた時、私はすぐ「ええ帰りましょう」と快く答えた。そうして二人でまた元の路《みち》を浜辺へ引き返した。
私はこれから先生と懇意になった。しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。
それから中《なか》二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。先生と掛茶屋《かけぢゃや》で出会った時、先生は突然私に向かって、「君はまだ大分《だいぶ》長くここにいるつもりですか」と聞いた。考えのない私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「どうだか分りません」と答えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極《きま》りが悪くなった。「先生は?」と聞き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。
私はその晩先生の宿を尋ねた。宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の境内《けいだい》にある別荘のような建物であった。そこに住んでいる人の先生の家族でない事も解《わか》った。私が先生先生と呼び掛けるので、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の口癖《くちくせ》だといって弁解した。私はこの間の西洋人の事を聞いてみた。先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉《かまくら》にいない事や、色々の話をし
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