のです。結婚する前から恋人の信用を失うのは、たとい一|分《ぶ》一|厘《りん》でも、私には堪え切れない不幸のように見えました。
要するに私は正直な路《みち》を歩くつもりで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾《こうかつ》な男でした。そうしてそこに気のついているものは、今のところただ天と私の心だけだったのです。しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑った事をぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境《きゅうきょう》に陥《おちい》ったのです。私はあくまで滑った事を隠したがりました。同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。私はこの間に挟《はさ》まってまた立《た》ち竦《すく》みました。
五、六日|経《た》った後《のち》、奥さんは突然私に向って、Kにあの事を話したかと聞くのです。私はまだ話さないと答えました。するとなぜ話さないのかと、奥さんが私を詰《なじ》るのです。私はこの問いの前に固くなりました。その時奥さんが私を驚かした言葉を、私は今でも忘れずに覚えています。
「道理で妾《わたし》が話したら変な顔をしていましたよ。あなたもよくないじゃありませんか。平生《へいぜい》あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは」
私はKがその時何かいいはしなかったかと奥さんに聞きました。奥さんは別段何にもいわないと答えました。しかし私は進んでもっと細《こま》かい事を尋ねずにはいられませんでした。奥さんは固《もと》より何も隠す訳がありません。大した話もないがといいながら、一々Kの様子を語って聞かせてくれました。
奥さんのいうところを綜合《そうごう》して考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最も落ち付いた驚きをもって迎えたらしいのです。Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですかとただ一口《ひとくち》いっただけだったそうです。しかし奥さんが、「あなたも喜んで下さい」と述べた時、彼ははじめて奥さんの顔を見て微笑を洩《も》らしながら、「おめでとうございます」といったまま席を立ったそうです。そうして茶の間の障子《しょうじ》を開ける前に、また奥さんを振り返って、「結婚はいつですか」と聞いたそうです。それから「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事ができません」といったそうです。奥さんの前に坐《すわ》っていた私は
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