杯呑みました。それから玄関へ出ました。私はわざとKの室を回避するようにして、こんな風に自分を往来の真中に見出《みいだ》したのです。私には無論どこへ行くという的《あて》もありません。ただ凝《じっ》としていられないだけでした。それで方角も何も構わずに、正月の町を、むやみに歩き廻《まわ》ったのです。私の頭はいくら歩いてもKの事でいっぱいになっていました。私もKを振《ふる》い落す気で歩き廻る訳ではなかったのです。むしろ自分から進んで彼の姿を咀嚼《そしゃく》しながらうろついていたのです。
私には第一に彼が解《かい》しがたい男のように見えました。どうしてあんな事を突然私に打ち明けたのか、またどうして打ち明けなければいられないほどに、彼の恋が募《つの》って来たのか、そうして平生の彼はどこに吹き飛ばされてしまったのか、すべて私には解しにくい問題でした。私は彼の強い事を知っていました。また彼の真面目《まじめ》な事を知っていました。私はこれから私の取るべき態度を決する前に、彼について聞かなければならない多くをもっていると信じました。同時にこれからさき彼を相手にするのが変に気味が悪かったのです。私は夢中に町の中を歩きながら、自分の室に凝《じっ》と坐《すわ》っている彼の容貌《ようぼう》を始終眼の前に描《えが》き出しました。しかもいくら私が歩いても彼を動かす事は到底できないのだという声がどこかで聞こえるのです。つまり私には彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。私は永久彼に祟《たた》られたのではなかろうかという気さえしました。
私が疲れて宅《うち》へ帰った時、彼の室は依然として人気《ひとけ》のないように静かでした。
三十八
「私が家へはいると間もなく俥《くるま》の音が聞こえました。今のように護謨輪《ゴムわ》のない時分でしたから、がらがらいう厭《いや》な響《ひび》きがかなりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました。
私が夕飯《ゆうめし》に呼び出されたのは、それから三十分ばかり経《た》った後《あと》の事でしたが、まだ奥さんとお嬢さんの晴着《はれぎ》が脱ぎ棄《す》てられたまま、次の室を乱雑に彩《いろど》っていました。二人は遅くなると私たちに済まないというので、飯の支度に間に合うように、急いで帰って来たのだそうです。しかし奥さんの親切はKと私とに取ってほとんど無効
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