《いっこう》記憶となって母の頭に影さえ残していない事がしばしばあったのです。だから……しかしそんな事は問題ではありません。ただこういう風《ふう》に物を解きほどいてみたり、またぐるぐる廻《まわ》して眺《なが》めたりする癖《くせ》は、もうその時分から、私にはちゃんと備わっていたのです。それはあなたにも始めからお断わりしておかなければならないと思いますが、その実例としては当面の問題に大した関係のないこんな記述が、かえって役に立ちはしないかと考えます。あなたの方でもまあそのつもりで読んでください。この性分《しょうぶん》が倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は後来《こうらい》ますます他《ひと》の徳義心を疑うようになったのだろうと思うのです。それが私の煩悶《はんもん》や苦悩に向って、積極的に大きな力を添えているのは慥《たし》かですから覚えていて下さい。
話が本筋《ほんすじ》をはずれると、分り悪《にく》くなりますからまたあとへ引き返しましょう。これでも私はこの長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他《ほか》の人と比べたら、あるいは多少落ち付いていやしないかと思っているのです。世の中が眠ると聞こえだすあの電車の響《ひびき》ももう途絶《とだ》えました。雨戸の外にはいつの間にか憐《あわ》れな虫の声が、露の秋をまた忍びやかに思い出させるような調子で微《かす》かに鳴いています。何も知らない妻《さい》は次の室《へや》で無邪気にすやすや寝入《ねい》っています。私が筆を執《と》ると、一字一|劃《かく》ができあがりつつペンの先で鳴っています。私はむしろ落ち付いた気分で紙に向っているのです。不馴《ふな》れのためにペンが横へ外《そ》れるかも知れませんが、頭が悩乱《のうらん》して筆がしどろに走るのではないように思います。
四
「とにかくたった一人取り残された私《わたくし》は、母のいい付け通り、この叔父《おじ》を頼るより外《ほか》に途《みち》はなかったのです。叔父はまた一切《いっさい》を引き受けて凡《すべ》ての世話をしてくれました。そうして私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。
私は東京へ来て高等学校へはいりました。その時の高等学校の生徒は今よりもよほど殺伐《さつばつ》で粗野でした。私の知ったものに、夜中《よる》職人と喧嘩《けんか》をして、相手の頭へ下駄《
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