人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の生命《いのち》と共に葬《ほうむ》った方が好《い》いと思います。実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目《まじめ》だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。
 私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを凝《じっ》と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫《つか》みなさい。私の暗いというのは、固《もと》より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。また倫理的に育てられた男です。その倫理上の考えは、今の若い人と大分《だいぶ》違ったところがあるかも知れません。しかしどう間違っても、私自身のものです。間に合せに借りた損料着《そんりょうぎ》ではありません。だからこれから発達しようというあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。
 あなたは現代の思想問題について、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう。私のそれに対する態度もよく解《わか》っているでしょう。私はあなたの意見を軽蔑《けいべつ》までしなかったけれども、決して尊敬を払い得《う》る程度にはなれなかった。あなたの考えには何らの背景もなかったし、あなたは自分の過去をもつには余りに若過ぎたからです。私は時々笑った。あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私に見せた。その極《きょく》あなたは私の過去を絵巻物《えまきもの》のように、あなたの前に展開してくれと逼《せま》った。私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮《ぶえんりょ》に私の腹の中から、或《あ》る生きたものを捕《つら》まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜《すす》ろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭《いや》であった。それで他日《たじつ》を約して、あなたの要求を斥《しりぞ》けてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴《あ》びせかけようとしているのです。私の鼓動《こどう》が停《とま》った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。

   
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