》次第独立しなくっちゃ。元来学校を出た以上、出たあくる日から他《ひと》の世話になんぞなるものじゃないんだから。今の若いものは、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方は全く考えていないようだね」
 父はこの外《ほか》にもまだ色々の小言《こごと》をいった。その中には、「昔の親は子に食わせてもらったのに、今の親は子に食われるだけだ」などという言葉があった。それらを私はただ黙って聞いていた。
 小言が一通り済んだと思った時、私は静かに席を立とうとした。父はいつ行くかと私に尋ねた。私には早いだけが好《よ》かった。
「お母さんに日を見てもらいなさい」
「そうしましょう」
 その時の私は父の前に存外《ぞんがい》おとなしかった。私はなるべく父の機嫌に逆らわずに、田舎《いなか》を出ようとした。父はまた私を引《ひ》き留《と》めた。
「お前が東京へ行くと宅《うち》はまた淋《さみ》しくなる。何しろ己《おれ》とお母さんだけなんだからね。そのおれも身体《からだ》さえ達者なら好《い》いが、この様子じゃいつ急にどんな事がないともいえないよ」
 私はできるだけ父を慰めて、自分の机を置いてある所へ帰った。私は取り散らした書物の間に坐《すわ》って、心細そうな父の態度と言葉とを、幾度《いくたび》か繰り返し眺めた。私はその時また蝉《せみ》の声を聞いた。その声はこの間中《あいだじゅう》聞いたのと違って、つくつく法師《ぼうし》の声であった。私は夏郷里に帰って、煮え付くような蝉の声の中に凝《じっ》と坐っていると、変に悲しい心持になる事がしばしばあった。私の哀愁はいつもこの虫の烈《はげ》しい音《ね》と共に、心の底に沁《し》み込むように感ぜられた。私はそんな時にはいつも動かずに、一人で一人を見詰めていた。
 私の哀愁はこの夏帰省した以後次第に情調を変えて来た。油蝉の声がつくつく法師の声に変るごとくに、私を取り巻く人の運命が、大きな輪廻《りんね》のうちに、そろそろ動いているように思われた。私は淋《さび》しそうな父の態度と言葉を繰り返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生の事をまた憶《おも》い浮べた。先生と父とは、まるで反対の印象を私に与える点において、比較の上にも、連想の上にも、いっしょに私の頭に上《のぼ》りやすかった。
 私はほとんど父のすべても知り尽《つく》していた。もし父を離れるとすれば、情合《じょうあい》の
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