われて来た。私は不愉快になった。私はまた先生夫婦の事を想《おも》い浮べた。ことに二、三日前|晩食《ばんめし》に呼ばれた時の会話を憶《おも》い出した。
「どっちが先へ死ぬだろう」
 私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。そうしてこの疑問には誰も自信をもって答える事ができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬと判然《はっきり》分っていたならば、先生はどうするだろう。奥さんはどうするだろう。先生も奥さんも、今のような態度でいるより外《ほか》に仕方がないだろうと思った。(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事もできないように)。私は人間を果敢《はか》ないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。
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  中 両親と私


     一

 宅《うち》へ帰って案外に思ったのは、父の元気がこの前見た時と大して変っていない事であった。
「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業ができてまあ結構だった。ちょっとお待ち、今顔を洗って来るから」
 父は庭へ出て何かしていたところであった。古い麦藁帽《むぎわらぼう》の後ろへ、日除《ひよけ》のために括《くく》り付けた薄汚《うすぎた》ないハンケチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へ廻《まわ》って行った。
 学校を卒業するのを普通の人間として当然のように考えていた私《わたくし》は、それを予期以上に喜んでくれる父の前に恐縮した。
「卒業ができてまあ結構だ」
 父はこの言葉を何遍《なんべん》も繰り返した。私は心のうちでこの父の喜びと、卒業式のあった晩先生の家《うち》の食卓で、「お目出とう」といわれた時の先生の顔付《かおつき》とを比較した。私には口で祝ってくれながら、腹の底でけなしている先生の方が、それほどにもないものを珍しそうに嬉《うれ》しがる父よりも、かえって高尚に見えた。私はしまいに父の無知から出る田舎臭《いなかくさ》いところに不快を感じ出した。
「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だってあります」
 私はついにこんな口の利《き》きようをした。すると父が変な顔をした。
「何も卒業したから結構とばかりいうんじゃない。そりゃ卒業は結構に違いないが、おれのいうのはもう少し意味があるんだ。それがお前に解
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