文學書には※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ーナスとかバツカスとかいふ呑氣《のんき》な名前は餘《あま》り出て來ないやうです。希臘《ギリシア》のミソロジーを知らなくても、イブセンを讀むには殆《ほと》んど差支《さしつかへ》ないでせう。もつと皮肉にいふと、人生に切實な文學には遠い昔しの故事や故典は何《ど》うでも構《かま》はないといふ所に詰《つま》りは落ちて來さうです。あなたもそれは御承知でせう。それでゐてこんな夢のやうなものを八ヶ月もかゝつて譯したのは、恐らく餘《あま》りに切實な人生に堪へられないで、古い昔の、有つたやうな又無いやうな物語に、疲れ過ぎた現代的の心を遊ばせる積《つも》りではなかつたでせうか、もし左右《さう》ならば私も全く御同感です。其意味を面倒に述べ立てるのは大袈裟《おほげさ》だから止《よ》しますが、私は自分で小説を書くと其《その》あとが心持ちが惡い。それで呑氣《のんき》な支那《しな》の詩などを讀んで埋め合せを付けてゐます。夫《それ》から大病中|徒然《つれづれ》を慰《なぐさ》めるため繪(繪といふ名はちと分《ぶん》に過ぎるから、繪のやうなものと云つた方が適切ですが)其《その》繪を描いて遊んでゐると、矢張《やは》り仙人だの坊主だの山水だのが天然自然題目になります。是《これ》もある意味に於《おい》てあなたの神話に丹精《たんせい》を盡したと同じ動機になるのではありますまいか。弱い神經衰弱症の人間が無暗《むやみ》に他の心を忖度《そんたく》して好い加減《かげん》な事を申して濟みません。もし間違つたら御勘辨を願ひます。
 最後に神樣の名前の發音に就《つ》いて一寸《ちよつと》申上げます。あなたの發音法は大部分大陸|讀方《よみかた》(コンチネンタル・メソツド)を用ゐられた樣《やう》ですが、日本で云ひ慣《な》らされたバツカスとか※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ーナスとか云ふのは英吉利《イギリス》讀《よみ》にされたと見えますから其邊《そのへん》は一寸《ちよつと》讀者に注意して置いて遣《や》らないと惡いだらうと思ひます。夫《それ》から又|羅甸《ラテン》讀《よみ》にしてもクオンチチイを付けて發音しないで、のべつに羅馬《ローマ》字綴りの讀み方|見《み》たやうに遣《や》つたのがあるなら、夫《それ》も序《ついで》に斷《ことわ》つて置いて御遣《おや》んなさい。
 序を書きたいのは山々《やまやま》ですが序らしい序が書けないので此《この》手紙を書きました。若《も》し序の代りにでも御用ひが出來るなら何《ど》うぞ御使ひ下さいまし。以上。
  六月十日
[#地から3字上げ]夏目金之助
    野上八重子樣
[#地付き](大正二年)



底本:「ギリシア・ローマ神話」ブルフィンチ作、野上弥生子訳、岩波文庫、岩波書店
   1978(昭和53)年8月16日改版第1刷発行
   1988(昭和63)年8月15日第17刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:鈴木厚司
校正:kamille
2004年7月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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