告を聞いて、主人の首が恐ろしい様子になった事は月の光で判然と分った。眼は大きく開いた、髪は逆立った、歯は軋《きし》った。それから一つの叫びが唇から破裂した、忿怒の涙を流しながらどなった、
「からだを動かされた以上、再びもと通りになる事はできない。死なねばならない。……皆これがあの僧の仕業だ。死ぬ前にあの僧に飛びついてやろう、――引き裂いてやろう、――喰いつくしてやろう。……ああ[#「ああ」に傍点]、あすこに居る[#「あすこに居る」に傍点]――あの樹のうしろ――あの樹のうしろに隠れている。あれ、――あの肥《ふと》た臆病者」……
同時に主人の首は他の四つの首を随えて、囘龍に飛びかかった。しかし強い僧は手ごろの若木を引きぬいて武器とし、それを打ちふって首をなぐりつけ、恐ろしい力でなぎたててよせつけなかった。四つの首は逃げ去った。しかし、主人の首だけは、いかに乱打されても、必死となって僧に飛びついて、最後に衣の左の袖に喰いついた。しかし囘龍の方でも素早くまげをつかんでその首を散々になぐった。どうしても袖からは離れなかったが、しかし長い呻きをあげて、それからもがくことを止めた。死んだのであった。しかしその歯はやはり袖に喰いついていた。そして囘龍のありたけの力をもってしても、その顎を開かせる事はできなかった。
彼はその袖に首をつけたままで、家へ戻った。そこには、傷だらけ、血だらけの頭が胴に帰って、四人のろくろ首が坐っているのを見た。裏の戸口に僧を認めて一同は「僧が来た、僧が」と叫んで反対の戸口から森の方へ逃げ出した。
東の方が白んで来て夜は明けかかった。囘龍は化物の力も暗い時だけに限られている事を知っていた。袖についている首を見た――顔は血と泡と泥とで汚れていた。そこで「化物の首とは――何と云うみやげだろう」と考えて大声に笑った。それからわずかの所持品をまとめて、行脚をつづけるために、徐ろに山を下った。
直ちに旅をつづけて、やがて信州諏訪へ来た。諏訪の大通りを、肘に首をぶら下げたまま、堂々と濶歩していた。女は気絶し、子供は叫んで逃げ出した。余りに人だかりがして騒ぎになったので、捕吏《とりて》が来て、僧を捕えて牢へ連れて行った。その首は殺された人の首で、殺される時、相手の袖に喰いついたものと考えたからであった。囘龍の方では問われた時に微笑ばかりして何にも云わなかった。それから一夜を牢屋ですごしてから、その土地の役人の前に引き出された。それから、どうして僧侶の身分として袖に人の首をつけているか、なぜ衆人の前で厚顔にも自分の罪悪の見せびらかしをあえてするか、説明するように命ぜられた。
囘龍はこの問に対して長く大声で笑った、それから云った、
「皆様、愚僧が袖に首をつけたのではなく、首の方から来てそこへついたので――愚僧迷惑至極に存じております。それから愚僧は何の罪をも犯しません。これは人間の首でなく、化物の首でございます、――それから化物が死んだのは、愚僧が自分の安全を計るために必要な用心をしただけのことからで、血を流して殺したのではございません」……それから彼は更に、全部の冒険談を物語って、五つの首との会戦の話に及んだ時、また一つ大笑いをした。
しかし、役人達は笑わなかった。これは剛腹頑固な罪人で、この話は人を侮辱したものと考えた。それでそれ以上詮索しないで、一同は直ちに死刑の処分をする事にきめたが、一人の老人だけは反対した。この老いた役人は審問の間には何も云わなかったが、同僚の意見を聞いてから、立ち上って云った、「まず首をよく調べましょう、これが未だすんでいないようだから。もしこの僧の云う事が本当なら、首を見れば分る。……首をここへ持って来い」
囘龍の背中からぬき取った衣にかみついている首は、裁判官達の前に置かれた。老人はそれを幾度も※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して、注意深くそれを調べた。そして頸の項《うなじ》にいくつかの妙な赤い記号らしいものを発見した。その点へ同僚の注意を促した。それから頸の一端がどこにも武器で斬られたらしい跡のない事を見せた。かえって落葉が軸から自然に離れたように、その頸の断面は滑らかであった。……そこで老人は云った、
「僧の云った事は全く本当としか思われない。これはろくろ首だ。「南方異物志」に、本当のろくろ首の項《うなじ》の上には、いつでも一種の赤い文字が見られると書いてある。そこに文字がある。それはあとで書いたのではない事が分る。その上甲斐の国の山中にはよほど昔から、こんな怪物が住んでおる事はよく知られておる。……しかし」囘龍の方へ向いて、老人は叫んだ――「あなたは何と強勇なお坊さんでしょう。たしかにあなたは坊さんには珍らしい勇気を示しました。あなたは坊さんよりは、武士の風がありますな。た
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田部 隆次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング