外のものが「あるじ」と云っているその主人に向って云った。
「その親切な言葉や、皆さんから受けたはなはだ丁寧なもてなしから、私はあなたを初めからのきこりとは思われない。たぶん以前は身分のある方でしたろう」
 きこりは微笑しながら答えた。
「はい、その通りでございます。ただ今は御覧の通りのくらしをしていますが、昔は相当の身分でした。私の一代記は、自業自得で零落したものの一代記です。私はある大名に仕えて、重もい役を務めていました。しかし余りに酒色に耽って、心が狂ったために悪い行をいたしました。自分の我儘から家の破滅を招いて、たくさんの生命を亡ぼす原因をつくりました。その罸があたって、私は長い間この土地に亡命者となっていました。今では何か私の罪ほろぼしができて、祖先の家名を再興する事のできるようにと、祈っています。しかしそう云う事もできそうにありません。ただ、真面目な懺悔をして、できるだけ不幸な人々を助けて、私の悪業の償いをしたいと思っております」
 囘龍はこのよい決心の告白をきいて喜んで主人に云った、
「若い時につまらぬ事をした人が、後になって非常に熱心に正しい行をするようになる事を、これまでわしは見ています。悪に強い人は、決心の力で、また、善にも強くなる事は御経にも書いてあります。御身は善い心の方である事は疑わない。それでどうかよい運を御身の方へ向わせたい。今夜は御身のために読経をして、これまでの悪業に打ち勝つ力を得られる事を祈りましょう」
 こう云ってから囘龍は主人に「お休みなさい」を云った。主人は極めて小さな部屋へ案内した。そこには寝床がのべてあった。それから一同眠りについたが、囘龍だけは行燈のあかりのわきで読経を始めた。おそくまで読経勤行に余念はなかった。それからこの小さな寝室の窓をあけて、床につく前に、最後に風景を眺めようとした。夜は美しかった。空には雲もなく、風もなかった。強い月光は樹木のはっきりした黒影を投げて、庭の露の上に輝いていた。きりぎりすや鈴虫の鳴き声は、騒がしい音楽となっていた。近所の滝の音は夜のふけるに随って深くなった。囘龍は水の音を聴いていると、渇きを覚えた。それで家の裏の筧を想い出して、眠っている家人の邪魔をしないで、そこへ出て水を飲もうとした。襖をそっとあけた。そうして、行燈のあかりで、五人の横臥したからだを見たが、それにはいずれも頭がなか
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