して、「傑作に触れるといふことは大きなことだな。眠つた心を覚まして呉れるな、萎えた心を起して呉れるな……。僕もこんなにしてはゐられないやうな気がして来た――」
「僕は思ふね……。普通では、あゝいふ心は起されないね。何か感激するものがその人になくつては――? 僕はあそこの中から、あの石の仏像の中から、あらゆる苦しみをさがして来ることが出来るやうな気がするね。あゝしたものでも踏張つてつくらなければ生きてゐられなかつたやうな苦痛をそこに発見することが出来るね。あれはその苦痛――じつとしてゐれば死ななければならない苦痛から蘇つて来るためにつくられたもののやうな気がするね。でなくつてはあゝいふものは出来ない。あの中には恋愛がかくされてゐるかも知れない」Mはこんなことを言つた。
「兎に角、えらゐ作だな。あの全体から発散して来る気分は何とも言へないぢやないですか。その冴えた鑿のあとがはつきりと線になつて残つてゐるぢやないですか? 僕はスケツチしながら、情けなくなつて来ましたよ」
「僕もさつき涙が出て来てしやうがなかつた。……」
 Mは悲しさうな表情して何か言ひかけて止した。Mはかうして二月も前から異郷に彷徨はなければならなくなつた理由――何も彼も捨てゝさびしい野に呼吸しなければならなくなつた理由に今しもぴたりと打突つたのであつた。かれの心は暫し内に向つて開けた。かれはそこにかの女を見た。何うしても捨てゝ了はなければならなくなつたかの女を見た。(何うしてその身もさうした苦痛から奮ひ起てないのか。否、あの石仏を刻んだ人のやうなあゝしたすぐれた努力がありさへすれば、この身はかの女を捨てなくとも浮かべたのだ! 此方の心が、苦しみが浅かつたのだ! 世間並だつたのだ!)しかしMはそれについては何一言も人に話さなかつた。

         四

 Aにも矢張さうしたラブ・シツクがあつた。かれが此方に来てゐるのは、それはそれが直接の原因ではなかつたけれども、間接にはそれが痛さに、その失恋に触れられるのが痛さに望んで此方へとやつて来たのであつた。Aは此方に来てから、もはや三年以上にもなつた。誰もがさうした恋の苦悶を持つてゐるなどとは知らなかつた。Aは何方かと言へば交際上手で多くの人達に好かれてゐた。感じも明るい方であつた。しかし、夜などひとりでゐると、その恋が生き生きと胸に動き出して来て何うすることも出来ないやうなことがをりをりあつた。
 しかしMがその恋の苦痛をAに話さないのと同じやうに、Aもその心の中をMに語らうとはしなかつた。二人はやがてそこから起ち上つた。
 かれ等は来た時の路を静かに下りて行つた。重つた山は次第に開けて、眼下には赤ちやけた低い山で取巻かれたかなりにひろい野があらはれて来た。気が附くと、そこには白い烟を出して走つてゐる汽車が玩具か何かのやうに小さく小さく見えてゐた。
「もう一度、あとに戻つて、あの石窟のところにゐたいやうな気がしますね。あゝした静寂な芸術の世界もあるのにあれを捨てゝ、一歩々々娑婆に下りて行くのは、残念なやうな気がしますね」
「本当ですね」
 二人はかう言つただけであつた。かれ等は各自に自分のことを考へてゐた。



底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
   1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
   1925(大正14)年11月10日発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2009年4月9日作成
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