なかつた。
「……………………」
「…………? それぢや、私、これからすぐ伺ひます。大丈夫ですよ。心配なんかいりませんよ。Hホテルですね。あなたのゐらつしやるところは、此処からすぐなんですの。いくらもないのですの。ホテルの何処? 二階? さう? 三階なの? 三階の右の二番目の室なの? ぢやすぐ行きます……」かう言つて、チリチリンと電話が切れた。かれは暫らくそこに立尽した。不思議な気がした。そこにある電話の口も把手《ハンドル》も、電話帳も、その狭い室にさし込んで来る灯《ひ》の光線も何も彼もすべて喜悦《よろこび》に輝いてゐるやうにかれには思へた。
三
かれはやがて元の室へともどつて来て、暫しは茫然《ぼんやり》として椅子に腰を下してゐたが、まア少し片附けようと思つて起上つて、そこに卓《テーブル》の上に出してある雑誌だの案内書だの報告書だのを鞄の中に入れて、それを向うの方へと持つて行つた。紙屑の散ばつてゐるのは、屑箱の中に入れ、紅茶茶碗のよごれてゐるのは其方の卓《テーブル》の方へと持つて行つて置いた。かれは不思議な気がした。此処で、かういふところでかの女に逢ふといふことは、此方《こちら》に来るまでは想像も出来ないことだつた。否、此方《こちら》に旅して来てからは、長い間かの女に逢ふことを目的にしてゐたにはゐたにしても、それが着々と進捗して、こつそりと誰にも知れずに、二つの心と二つの体がかういふ風に塞外のホテルの一室に相対しようとははつきりとは思つてゐなかつた。Bはまたしても椅子に身を凭《もた》らせて冥想的にならずにはゐられなかつた。
Bとかの女との関係、時子が何うしても此方《こちら》に来なければならなくなつた理由、今でもその世話になつてゐる人から時子が離れることは出来ないらしい物語――それは此処には言ふ必要はなかつたほどそれほどかれ等は相逢ふことを喜ばずにはゐられなかつたのである。その世話になつてゐる人の上から言へば、さうしたことはとても堪へられないことであつたらうけれども、罪であつたらうけれども、しかしかうしたパツシヨネイトな心と心とが相触れるといふことは何うすることも出来なくはないか。咎めたところで咎めきることは出来なくはないか。しかも、それも長い間ではなく、せい/″\四五日――それを通過しさへすれば、あとはいかに逢ひたくとも再び逢ふことが出来なくなる二つの心と体とではないか。それは世話になつてゐる人に対しては罪ではあるが、その罪は赦さるべきではないか。四五日後にはいかに燃えても再び相見ることが出来ないといふことで許さるべきではないか。否、考へるともなくさうした考へに耽《ふけ》つた時には、Bは何とも言はれない悲哀に落ちずにはゐられなかつた。さういふ風に触れ合つた二つの心が、この世の運命といふものゝために、再び遠く離れ去らなければならないことを考へた時には、かれは深く、一層深く恋愛の淵に臨んだやうな気がした。
突然、かれは軽いスリツパの音の遠くからきこえて来るのを聞いたやうに思つた。かれははつとして耳を欹《そばだ》てた。次第にそれは階段から廊下の方へと近寄つて来る跫音だといふことがわかつた。しかしそれはひとつの跫音ではなかつた。何か女同志が囁き合ひながら歩いて来てゐるのであつた。いきなりBは全身に強い衝動を感じた。かれはかの女の気勢《けはひ》と声とを感じたのである。
「この室《へや》ですね?」
(さうです)
さうした声が耳に入つたと思ふと、扉《ドア》の把手《ハンドル》がぐるりと廻つて、さつきの女中の小づくりな蒼白い顔がひよいと見えて、その向うに、色の白い、眼のぱつちりした――その眼から額へかけては、何遍夢に見たか知れないその時子の顔が笑《ゑみ》を含んで此方《こちら》を見てゐるのをBははつきりと見た。
Bは急いで起上《たちあが》つた。そしてそつちへ二三歩近寄つた。
「お!」
「まア、貴方!」
女中が見てゐなかつたら、かれ等は互ひに抱き合つたかも知れなかつた。Bは時子の眼の中に光つたものを見ると同時に、かれの眼にも熱いものが溢れて来るのを感じた。時子は何方《どちら》かと言へばじみなつくりをしてゐた。以前から派手なのが嫌ひで、まだ若いのにあまり年増づくりだなどと言はれたのであつたが、その好みは今でも変らないらしく、黒繻子の帯に素銅《すあか》の二疋鮎の刻《ほり》のしてある帯留などをしてゐた。髪は前の大きく出た割合に旧式な束髪にしてゐた。それにも拘らず、そのすらりした姿は、明るい室《へや》の夜の光線の中にくつきりと浮び上つて見えた。
時子は椅子にも腰かけず、ぢつと立つてかれの方を見詰めた。Bも何と言つて好いかわからなかつた。かうして相対しない以前にあつては、行つたならば誰がゐたつて構ふことはない、抱擁するなり
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