丈夫ですとも……」
「深いんだらう?」
「それは深いですけれども、そんな心配はありませんの……」
「是でひつくりかへれば、それこそ本望には本望だけども――」Bはいくらか軽い調子で言つた。
「本当ね」
時子も片頬を笑ませた。
支那人の船頭が櫂を操つるにつれて、ボートは静かに川の上へ浮んで行つた。静かな波が日影と共にキラ/\と櫂に砕けた。
次第に離れて行く岸には、支那人やロシア人が大勢集まつて此方《こちら》を見てゐた。中には此方《こちら》を指して何か言つてゐる者などもあつた。埠頭に立てられてある赤い旗のあたりには、ロシアの主席達が二組も三組も手を組んで歩いて行くのが見えた。
「私も、夏になると、抱への妓などゝ一緒に来るんですの……」
「漕げるのかね?」
「え、漕げますとも――よくひとりで漕いで行くこともあるんですもの――でもかうしてこの舟に貴方と一緒に乗らうなどゝはいつ考へたでせうね? それを想ふと、もうこれで十分だ! ツて云ふ気がしますねえ。矢張、あの雪の夜の十字架のお蔭ね?」
「矢張、お互ひに心をなくさずに持つてゐたからだね?」
「本当ですね」
二人は恋の極致にでも達したやうな涙ぐましさを感ぜずにはゐられなかつた。お互ひに――本当にお互ひに心をなくさずに持つて来た。そのためにかうした心が開かれた。櫂に砕ける水の音が静かにあたりに響いた。
四
二人はやがて向うの岸に上陸した。
かれ等の眼には荒れ果てた部落――曾てそのベランダに、またはそのバルコニイに、さぞさま/″\の美しい裾《スカート》を曳いたであらうと思はれる二階建の瀟洒な別荘風の建物や、白い赤いペンキ塗りの色の褪せて尖つた教会堂のやうな家屋や、柵のやうにぐるりと取巻いて居る垣の中にすつかり捨て去られた花壇や、硝子張りの所々破れて今は何の花の色彩もなくなつて了つたやうな温室や、さうかと思ふと、白い髯のロシア人がいかにも物淋しげにひとり立つてあたりを眺めてゐる庭などがそれからそれへとあらはれて来た。
「こゝは平生はハルピンでも好い人が住んでゐたところなんですけど、今はすつかりこんな風になつて了つたんです。でも、王党の人はまだこゝに来てかくれてゐるものがあるんださうですよ」時子はこんなことを言ひながら、それでも自分が案内しなければならないといふやうに、そこにゐるロシア人の子供をつかまへて、簡単なロシア語で、アンナ・パブロオナといふ女の住宅を訊いた。
始めは容易にわからなかつたが、三度目に訊いた子供が運好く知つてゐたので、そのまゝ迷ひもせずに、かれ等はその裏道の方へと入つて行つた。
小さな門のところへと行つて子供は立留つた。
見ると、果して、アンナ・パブロオナとその名が記してあつた。
時子が先に立つて、あとからBが続いた。と見ると、入口の処に中年のロシアの女がゐて、けゞんな顔をして此方《こなた》を見てゐたが、Watanabe――といふ言葉を一言時子が発音すると、内にゐてそれを聞きつけたらしい美しい、三十ぐらゐの女が急にそこにその半身をあらはした。アンナであることがすぐわかつた。
Tokio―Watanabe―唯それだけでアンナにはすべていろ/\なことがわかつたらしく、慌たゞしげに且つ喜ばしげに急いでB達をその家《いへ》の中に請じた。
それは小さな宅《うち》ではあつたが――その一室とその向うにもう一つ室があるだけで、仔細に見れば、その貧しさが、また其惨めさがそれと察せらるゝほどであつたが、否これと見ただけでも、そのアンナがハルピンの普通の踊妓《をどりこ》のやうな生活をしてゐないといふことが、さつき想像したやうにきまつた保護者すらこの人にはないといふことが、それとはつきり時子にも呑み込めて来たのであつたが、アンナに取つても、B達がかうして揃つて訪問して来て呉れたことに対しては非常に感謝したらしく、頻《しきり》にチヤホヤとかれ等を※[#「肄のへん+欠」、第3水準1−86−31]待した。B達は東京からの言伝《ことつて》を述べたり、託されて来た手紙と金とを其処に出したりして、アンナを喜ばせたが、その室《へや》の壁に接して十字架に並べてその Watanabe のカビネの写真像の置かれてあるのを眼にしたときには、彼等は思はず感激の声を立てた。
底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
1925(大正14)年11月10日発行
初出:「北海タイムス」
1925(大正14)年1月15、17、19、21、23日
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2009年4月9日作成
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