は今でも忘れずにゐます。その時はさうも思ひませんでしたけれども、矢張貴方に向つて手を合せたやうなものだつたんです――だから、そのアンナつていふ人の心持もよくわかりますの……。ね、いゝでせう。是非、一緒に伴れて行つて下さい――」
「でもね……行くのは好いけれどもね。一緒に歩いて、旦那に見られたり何かして、問題になると困るよ」
「私の旦那は、そんな旦那ぢやないの。一緒に歩いてゐるところを見られたつて、怒つたり何かする人ぢやないの――もつと思ひやりの深い人なのよ……。一緒に歩いたつて、三日か四日ぢやありませんか。あとはまたいつ逢はれるかわからないんですもの……大目に見て呉れますの……」
「…………」
三
朝飯も幅《はゞ》で下のレストランに入つて二人並んで食ひ、ホテルのマネイジヤアや番頭などにも平気で話し、あたり前の事でもするやうにして、B達は二人乗の軽快な馬車に乗つて出掛けた。
それでも時子はその前に宅へ電話をかけて来た。「叔母さん心配はしてゐたけれども……何アに構ひやしないのよ。好い叔母ですからね。本当の叔母だつてあんなには行きませんからね。あの叔母がわかつてゐるから、私、かうしてゐるのよ。でなきやこんなところに落附いてゐるもんですか」並んで馬車に乗りながら時子は言つた。ほんの今日だけのことであるけれども、それでも夫婦《めをと》にでもなつたやうな喜悦を時子もBも感じた。
「かうして馬車に乗つて、ハルピンの町を行かうとは思はなかつたのねえ? 去年の雪に教会堂で手を合せた時分にも、こんな時が来るとは思はなかつた!」
かう時子は喜ばしさうにBの耳に囁いた。
「エスカス? エスカス? 川まで?」
ロシヤ人の馭者は振返つてBに言つた。
「川まで?」
時子も合せた。
これでロシア人と支那人とが混つて歩いてさへゐなかつたなら、B達はこゝを日本橋の大通かと思つたかも知れないほどそれほどあたりの建物はよく似てゐた。漸く咲き始めた六月のアカシヤの花がをり/\強いかをりを街頭に漲らせた。
途中で時子はかねて知つてゐるらしい日本人に三人ほど逢つて挨拶した。一番最後に逢つたのは、脊広を着た、若いハイカラな会社員らしい男であつたが、少しこつちに来てから、「あの人、満鉄に出てゐるんですけれどもね。宅の抱への小春といふのに惚れて大変なんですの? お宝も随分使ふの?
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