、柿本の人丸でも、坊さんでも、女でも、其頃は目か鼻か口元か烏帽子の尖《さき》か衣裳の端かを見せられゝば、直ちに其名を指し得る程に目覚えがあつた。次は英泉、北斎、其他の漫画本。要するに、読むよりも見るはうが好き、目で見たことはよく覚えるが、単に耳から注込《つぎこ》まれた事は容易に呑込まぬ鈍根、若しくは気の散る性質であつた。
まじめな読書は嫌ひであつたが、草双紙は七歳頃から読みはじめた。其以前は母や兄に絵解《えとき》を聴くのが日課のやうになつてゐた。自身で読んだ最初の小説は、今表題は忘れたが、松亭金水作の稗史《よみほん》である。草双紙ではない。「釈迦《しゃか》八相」の翻案、中本仕立の読み本である。挿絵なども尚ほ目に残つてゐる。悉達太子と提婆とが武芸争ひをする条を読んだのが、全く初読である。それが皮切で、それからは手当り放題に色々なのを読んだが、最も愛読したのは、魯文かだれかゞ中本式の稗史《よみほん》に縮めた『八犬伝』であつたかと思ふ。『児雷也豪傑譚』なども美濃にゐるうちからの知己であつた。七代目団十郎や五代目瀬川菊之丞や五代目半四郎や鼻高の幸四郎なども、どういふ履歴の俳優だか、そんな事は知らなかつたが、其面附きだけは、種々の草双紙の画面に依つて、名古屋の姉婿や叔父、叔母以上によく覚え込んでゐたのであつた。
演劇に関する知識は、主として名古屋へ移つてから得たのであるが、謡曲は父や兄が口ずさむので、多少耳に染みてゐた上に、八九歳の頃、教課の一部として、強迫的に課せられて、ほんの小謡ひの幾番と「猩々」、「橋弁慶」位ゐを習つた。兄が師匠番である。それも度々《たびたび》読んだ書の一種かと思ふ。ところが、此謡ひといふものが、いやで/\たまらず、おまけに不器用で、覚えないと、手ひどく叱られる。細い鞭で見台の端をピシリ/\とやられるたびに慄へあがつたことは今に忘れない。其お庇か、「猩々」の文句一二ヶ所は今でも微かに節をおぼえてゐるからをかしい。無論、その後は曾て習つたことは無いのだが。
以上話した外には、其頃読んだ本で、自然に思ひだされるのは先づ無い。しかも此貧しい/\幼児の読書が、要するに、今の私の全き知識の萌芽でもあり、全き仕事の符号《シンボル》でもある。其後四十余年間、依然たる読書嫌ひであつたに拘らず、時と場合によつては、拠ろなく何くれとなく一通りは内外の書物を読んだものゝ
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